前置きというわけではないけれど、実はこのブログ、二日前と比べて二倍以上のアクセスを頂いている。その二日間のブログといえば、この2本だ。
かつては、他のブログに引用されて叩かれたり、物議を醸したこともある川島ブログではあるけれど、基本的には自分の言いたいことを連ねているだけなので、ご賛同いただける方がいらっしゃるだけでありがたい。批判なんかあって当然だというスタンスだし、でもだからと言って自分の意見をあまり曲げることもないので、さほど影響はないのだけれど。
ただ今までと少し違うアクセスの数となると、ちょっと気にはなってしまう。
それに関連するかもしれないけれど、やはり世にはいろんな人がいらっしゃるんだなぁと。
実はめったにしないことではあるが、自分からケヤフェス反対派の意見を探りに行った。で、それを見てもやはりよくわからない。なんだっけ、自称Buddiesの人の中には、コニファーはもともと欅坂が共和国をやってた場所だから、自分たちの空間のように考えている人もいるようで、それを日向坂に取られた、と思っている人がいてびっくりした。凄すぎる発想だ。というか、そもそもコニファーは櫻坂のものでもないし、何より取られた、という発想が狭量というか、貧困だなと。
それから、反対意見を否定するのはおかしい、みたいなのもあった気がする。これは明確に言っておこう。
否定されるべきなのだ。
何故か。
これから素晴らしいものを見せようと準備するはずの彼女たちを傷つけるに違いないからだ。
たとえどんな理由があろうと、自分が推しているグループや推しメンがそのツイートを見て喜ぶわけがない。ならば間違いなのである。間違いというのはおかしい、ということになれば、それはメンバーへの攻撃に等しくなる。メンバーを傷つけても自分の意見を言わせろ、という発想は、もはやアンチである。メンバーのことなどこれっぽっちも考えていない、自分の想いの方を優先させろという、非常にタチの悪いアンチに成り下がる。仮にそんな発想はない、と言ったところで、結果そうなるから同じことなのだ。
知り合いでもない人のことを、そこまで嫌いだ嫌いだムカつくムカつくって言いながら生きてて楽しいのかね。
まぁいいや。昨日の繰り返しになるからここでこの話は終わりだ。
閑話休題。
昨年のケヤフェス、初めてのこともあって結構期待が膨らんだのは、「W-KEYAKI FES.」という名前。これを見たら初期から推している人は当然期待する。漢字欅楽曲の復活があるのではと。名前に「けやき」とあれば、これは期待するなという方が無理だろう。でも、昨年はそのことが、メンバーと私たちの意識の齟齬を生んだ。
これは今でも私の反省点としてあるのだけれど、櫻坂のメンバーに対して欅坂の楽曲を期待する、というのは、それこそ前述のとおりメンバーを傷つけることになるのだと。そして、これは悪意がない分とても残酷だった。優しすぎるくらい優しい彼女たちは、そんなBuddiesの気持ちも察せるから、あまり言葉にしない。言葉にせずに、たださめざめと泣く。櫻坂としての自分たちよりも、欅坂だった自分たちがやはりまだ求められているんだという現実を突きつけられる。考えてみれば、残酷極まりない。それも自分たちのファンに言われるのだから。
これも何度もこのブログでは触れているが、昨年はまだ改名して一年も経たない時期。いろんな想いが複雑に絡み合っていたはずではあるが、それでも櫻坂として前へ進もうと決め、櫻坂としてのパフォーマンスに磨きをかけ、さらに有観客の全体LIVEとしては、櫻坂として初の舞台であったケヤフェス。その場で、櫻坂ではなく欅坂を求められていることを知るのだから、少なくとも嬉しいとはなかなか思えないだろう、というのも、私自身恥ずかしながら後で気づいたことである。
その辺り、結局ケヤフェスを快く思わない自称Buddiesや自称おひさまとどう違うのか。表現の仕方が違うだけで、自分たちの想いを表明してメンバーを傷つけるという点においては、些かも変わらないのではないかと思えてしまうのだ。
そんな大反省点を経たうえで、今年の合同はどう捉えるべきなのか。
メンバーの気持ちは知った。その上で臨むとすれば、あのときと状況はかなり変わったという現実から見る必要がある。
櫻坂としてのキャリアは1年半。昨年の今頃に比べれば、当然持ち歌は増えた。そして、これはおそらく比較にならないくらいTVでの露出も各メンバー増えている。あのときはメンバーにいた守屋茜・渡辺梨加・渡邉理佐が卒業してしまって今年のケヤフェスを迎えるとは想像もしてなかったが(時期的に考えると、どうも理佐の卒業プロジェクトは昨年のケヤフェスあたりから始まっていたように思えなくもないが…)。
プラスマイナス双方の変化を踏まえた上で、櫻坂46としてのステータスは、メンバーの中に出来上がっているのかどうか。
もちろん、まだまだ道半ばで、足りないといえば足りない。でも、キャリアを積んだ分だけ、少しずつではあっても櫻坂として、櫻坂にしか進めない道が見え始めて、そして歩を進めていることは間違いないと思っている。
その上で。
メンバーの気持ちも知った上で、敢えてもう一度問いかけたいのだ。
欅坂の楽曲を披露する覚悟はできたかと。
櫻坂を軌道に乗せた上で、自分たちの歴史と向き合う覚悟が。
櫻坂が求められていないわけではない。たくさんのBuddiesがそこにいるのだからそれは当然だ。
そうではなく、自分たちの歴史を直視してほしい、という思いでもある。
何故そこにこだわるか。
それが、始まりの象徴でもある「KEYAKI」を冠する意味ではないかと思うからだ。
一期生は、守屋茜渡辺梨加卒業セレモニーで、青空とMARRYを解禁した。
渡邉理佐卒業コンサートでは、二人セゾン、制服と太陽、世界には愛しかない、手を繋いで帰ろうか、風に吹かれてもなどを解禁した。
卒業生が主体だから。それは大きな意味に違いない。でもそれだけが解禁の理由で本当にいいのか。
今の自分たちが地に足をつけ、しっかりと踏み出しているという自信があるのならば、過去そのときに自分がどんな想いで欅の坂を登っていたかを思い出すこと、それはそんなに罪でもあるまい。
そして、この覚悟は、卒セレ卒コンで欅曲を披露した一期生よりも、二期生の方により求められてると感じている。
二期生のみんなは、櫻坂46としての自分がしっかりと確立し、その上で自分たちが加入したはずのグループである欅坂46の楽曲ともう一度向き合う覚悟があるか。
繰り返すが、櫻坂が求められていないなどと誤解してはいけない。
そうではなく、原点回帰なのだ。
自分たちが憧れ、入りたいと願ったグループに入れた貴重な存在でしょあなたたちは。
そんな歴史を自ら否定するわけにはいかないでしょうと。
それは、現在の自分を否定することにもつながるのだから。
むしろ二期生ほど、欅坂の楽曲を歌い継いでいくべき存在なのではないのだろうか。
櫻坂としてのステータスはもちろん必要だし、それを見てほしいのもわかる。そりゃそうだ。あなたたちは櫻坂46なのだから。
でも、自分たちにはどんな想いであろうと、欅の血が流れていること、それがやはり原点なのだ。それと正面から向き合うことは、櫻坂を否定することになるはずがないだろう。
だから、年に一度でいいじゃないか。
欅坂を自分の中にしっかりと宿らせておく、そのことを確認しておくこと。それは、ここから先を見据える上でもプラスに働くはずだ。
ポイントは、メンバー全員が同じ方向を向く覚悟ができるかどうか。
もしそれが達成さえされれば…そのときこそ、
「欅坂46」のovertureが富士山麓に鳴り響くことになるだろう。