櫻坂日向坂の上り方〜川島雅隆的編集後記

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推す上で忘れてはならないことー渡邉理佐・齋藤冬優花、本音を語る 2022年5月6日付

櫻坂46は、渡邉理佐卒業コンサートがまもなくである。

一期生の誰が卒業しても同じくらい感慨はあるのだけれど、ここまで陽になり陰になり支えていた理佐の卒業というものも、相当大きな意味がある。

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昨日のSHOWROOMは、正直言うと意外な内容ではあった。

一つのものを二人で作り上げながら進めていく、というのにも何か意味を感じたのだけれど、それ以上に、理佐もふーちゃんも、二人の時間をとても惜しみながら過ぎて行く時間のように感じられた。別段特別なことをしているわけではないのだが、それが逆に、グループの一員でいられるこの時間、卒業していく同期と共に過ごす時間を大切にしたいという気持ちがものの見事に伝わってきた。

 

作りながら話していく内容は様々だったが、気になった箇所がまずこれ。

 

 

まず、Twitter始めSNSは、メンバー含めた関係者が目にしていると思った方がいい。だから結構私も泳がされているのだろうと思うことはあるけど、それはとりあえず置いておいて。

卒業メンバーが発表されて、そのメンバーの握手会なり、ミーグリなり、今回のような卒業イベントなり、当然人気があればあるほど抽選に漏れる可能性が高くなる。

つまり、ずっとそのメンバーを推してきた自分がはずれて、さほど推してもいないような人が当選するのは納得がいかない、という論理から来るものだが、もちろんその感情は理解はできる。確かに不合理といえば不合理だ。

 

しかし、問題はそのやり方が「応募しないでください」という発想になることと、単推しの人が陥りやすい「箱推しの存在を忘れる」ということにあるのだ。

 

例えば、理佐の卒コンに応募している人は、立場やスタンスが様々なのは間違いない。理佐単推しの方は言うに及ばず、欅坂時代からずっと推してきた他推しの方にだって理佐に対する思い入れはあるだろうし、推しメンはいないけれど欅坂櫻坂をずっと箱で推してきた方にだって、理佐の卒業を見守る権利はあげてほしい。その人たちの熱量が、単推しの方より低いとなぜ言える?

 

私自身が、箱推しからスタートして、今でもベースは箱推しにあって、全員が好きだ。推しメンはいるけれど、その中でも特に推したいと思えているだけで、箱推しが基本なのだ。

欅坂を0から作り上げてきたメンバー、あれだけの社会現象に近い状況にまで育て上げ、さらにそれをリセットさせ、また新しいグループを0から作り上げる。そんなメンバーをずっと見てきていれば、全員に愛しさが込み上げてきて当然だろう。それこそ五月雨式に。

 

そして、そんな人は本当に単推しさんより熱量が低いのか?

単推しだから優遇されなければいけない理由など本当にあるのだろうか。

 

例えば、私の推しメンである佐藤詩織さんの場合は、欅坂46立ち上げからグループの活動休止までで卒業したメンバーだった。卒業イベントと銘打ったものは、当時コロナ禍真っ最中ということもあって存在しなかったが、THE LAST LIVEがそれに充てられた形だった。

もし彼女の卒業イベントがあったとしたら、推していた私が行きたいのは当然だが、一方で彼女を推しメンにしていなかった人にもたくさん行ってほしいと思っていた人間だ。それは、実は握手券の売れ方でも同じことを言っていた。

100枚を1人が買うより、100枚を1人ずつが買う方が、人気の裾野は広がる。売上は同じかもしれないけれど、後者の方に意味を持たせたいとあの頃ずっと言っていた。

 

「推していない人は、応募しないでください」

一見筋が通っているように見える。気持ちももちろんわからなくはない。

 

でも、なしだ。

 

これは推す側の心の問題なのだ。

推す人それぞれが決めればいいことなのだ。

誰かに指示されて決めることではない。自ら考えて決めるべきこと。

単推しに遠慮して申し込まない、というのをメンバーの立場に立って考えたら、こんなに寂しいこともないのではないか。

昨日の理佐の発言は、まさにそのことを顕著に表した。

 

だから私は、これからも推しメン以外の卒業イベントがあったとして、行けるタイミングがあるなら申し込むし、当たれば堂々と行く。

もちろん一方的にではあるけれど、全員加入直後から見知っている。そんな彼女たちが晴れて門出をする。それを誰かに遠慮して申し込まない、などというのは私にとっては愚の骨頂である。メンバーに対しても失礼な話に思える。

 

 

もう一つ。

一期生の涙は、本当にこちら側としてはいろんな感情が溢れ出してくる。

欅坂がうまく立ち行かなくなって、でもメンバー個々の力だけではどうしようもできなくて、歯がゆい思いもして、そして改名…当時はそのことに抗う気持ちは当然あっただろうし、一方でそれを自分の中で消化しないと先に進めない、と必死にもがいて、でもできなくて、そんな葛藤があって。

しかもそこにコロナ禍が重なって、ラストライブさえ配信で終わってしまうもどかしさ。

さらに、そのラストライブで欅坂の余韻にも感傷にも浸る間なしに、櫻坂46としての1stシングルを披露する。

 

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あのとき。

メンバーの感情って一体どうなっていたんだろう。

どんな感情であの曲を披露していたんだろう。

またその場にいずに、Nobody's faultの衣装だけ着て裏で表題選抜のパフォーマンスを見つめていたメンバーは一体何を思っていたのだろう。

きっと一枚岩になっているはずなどなくて、欅坂46というものが心に色濃く残っている状態だったはずなのに、緑ではなく真っ白なグループカラーを纏わされる姿。

 

そこに、理佐の言葉が重なる。

 

「応援してくれる人いないのかもしれないと思ったよ」

 

おそらくこれが、本音中の本音だ。

この状況で、Nobody's faultを披露していたのだ。

 

今まで欅坂を推してきた人たちが、全員離れるかもしれない、という恐怖と戦っていたのだ。

この恐怖は、もはや私たちでは想像もできない。

想像したとしても、きっと到達しない。当事者でない以上。

 

今の櫻坂46は平和になったとよく言われる。

少なくとも、あの激動の頃の雰囲気は微塵も感じられない。

でも、それは逆にあの頃を経験したから。私たちも含めあの頃を経験したからこその平和なんだと。

 

そういう意味で、メンバーが、理佐はもちろんのこと、全ての活動時間を尊く大切なものと考えているのは、至極当然のことなのだ。

 

推す上で忘れてはならないこと。

それは、時には自分たちの感情を抑えつつ、メンバーの感情を優先しなければならないことがある、ということ。

個人的にはそう思う。

 

ふーちゃんはこうも言った。

「永遠なんてないんだね」

理想主義と言われようが、私は永遠はあると信じている人間だ。

形あるものは、いつか壊れてしまう。それは形あるものの宿命だ。

でも、形のないものはどうだろう。

少なくとも、彼女たちが本気で訴えかけ、それを本気で受け止め続けてきた私たちの心は、永遠に存在するものかもしれないじゃないか。

 

永遠は、ある。

 

あると信じている方が、前を向けるのだ。

 

 

 

 

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