〝ケヤカス〟を科学するーW-KEYAKI FES.2021_DAY3(追記あり) 2021年7月14日付
富士急ハイランド・コニファーフォレスト。
欅から始まったグループにとっての、聖地と呼べる場所。
私が数え切れないくらい円盤で見た場所。
なんだろうか、この現実感のなさ。
まるでずっとフィクションだと思っていた世界に、自分がいるという摩訶不思議さ。
それも、別の姿に成長していったものの、根っこは今でも同じである二つのグループが会する、そんな機会で。
夢でも見てるんだろうか。
本当にそんな気持ちだった。
一方で、そんな夢心地を現実に引き戻してくれる、暑さ。
防水防寒対策はかなり念入りにしたつもりだったけれど、暑さ対策は怠っていた。7月だというのに情けないことだ。
今だから言うけど、正直熱中症の一歩手前まで行ってた。
でも、それでも。
これから眼前で展開される光景を考えると、それだけで気分が少し好転してくるから自分でも恐れ入る。
そして…いよいよ。
開始の幕が上がったのだが______
というわけで、初コニファー、行って参りました!
もともと漢字欅とひらがなけやき、現在の櫻坂日向坂の兼推しである私にとって、この合同LIVEほどご褒美はありません!
日向坂のLIVEは、2019年12月のUSJ以来。
櫻坂はさらに前で2019年9月の東京ドーム以来。櫻坂になってからはもちろん初。
この間に、いかにいろんなことがあったかはもう書くまでもないとして。
それだけの時間と経緯を経ているので、感動しない方がおかしい。
さて、まぁそれはそれとしまして。
結論から言えば、櫻坂日向坂がそれぞれの自分の持ち歌を交互に披露していく、という形で終始進み、最後に「W-KEYAKIZAKAの詩」をメンバーが涙ながらに歌う、という流れで、私としてはそれだけでも号泣ものではありました。
ところが。
このLIVEをご覧になった方、それも結構な数いらっしゃったと思うんですが、欅坂時代の楽曲が解禁されるのではないかという期待、或いはそれぞれの持ち歌を交換する形で披露するのではないかという期待等、かなり期待値が上がっていたと思われてて、そのどれもがなかったことに対する失望感で埋められたTLというのを目にしました。
私は「ケヤカス」とか「亡霊」とかいう言葉は好きではありません。自分からは一切使いません。これは今でもそうです。
ケヤカスというのを自分なりに解釈すると、今では改名してなくなってしまった(正確には運営発表曰く〝活動休止〟ですが)欅坂46を今でも追いかけ、好きでいる自分を、つまり過去に囚われている自分を自嘲している言い方だと認識しています。
だから好きではないのです。
なぜそんなに自分を卑下するのかと。
欅坂が今でも好き。大いに結構だと思うんです。自分も今でも大好きどころか、心の拠り所というか、かなりの自分の部分を捧げたのは間違いないし、今でもそれは誇りであったりします。
グループが事実上存在しなくなったからといって、それを推していることが何故カスなのか。カスでもなんでもない。堂々と欅坂推しを名乗って誰に責められるのか、という思いです。
ところがどうもこのケヤカスという言葉の響きがいいのか何なのか、ホントよく使われます。もちろん自分の想いを強制する気は毛頭ありません。自分では使わない、というだけのことです。
そして何より、気持ちは大いにわかります。
そういう意味では、私も定義的にはケヤカスの一人なのでしょう。
ということで、このW-KEYAKI FES.2021から見えてきた〝ケヤカス〟というものを、逆に徹底的に考えてみたいと思います。
そして、おそらく私が自分から「ケヤカス」「亡霊」という言葉を使うのは、これが最初で最後となるでしょう。
W-KEYAKI FES.2021という名前がついたことで、おそらくそんなケヤカスたちがざわついた、というのは間違いないと思います。
少し前、日向坂46が「MUSIC BLOOD」という番組に出演したとき、尊敬する先輩の楽曲として披露したのが「世界には愛しかない」、つまり欅坂46の曲でした。
界隈で巻き起こったのは、日向坂が欅坂の楽曲を披露できて、櫻坂が披露できないのはおかしい!という声。
これも、もちろん気持ちわかります。
このWKFが決まったとき、日向坂セカアイが伏線で、フェスでは遂に解禁されるのかという期待が高まったのは事実で、そういう声をいくつも拝見しました。
前述のとおり、DAY3のセトリは櫻坂の楽曲と、日向坂の楽曲が交互に披露され、間にMCが合計13回挟まれるという内容でした。加えて、日向坂はひらがな時代の楽曲披露(〝2020〟という名前はついてますが)があったのに対し、櫻坂に欅坂楽曲の披露はなし。
それ自体は私は良くなかったとは全く思っておりません。
MCでは貴重な話も聞けたし、何より私自身が両グループのLIVE現地参戦が相当久しぶりだったこともあったので、もはや何を観ても聞いても感動しているような状態でしたから…櫻坂46としてのパフォーマンスを眼前で観られたことは本当に嬉しかった。
ただもちろん正直なことを言うならば、「KEYAKI」という名前をつけておきながら、欅坂の楽曲を披露しないという、その意図は分かりかねました。
そんなことを説明してくれるはずもないので、各自その意味を考えて自分で納得するしかない。
これには正解なんかない、というか、わかるはずもないので、起きている事象だけで考えるとするなら、私には敢えて頑なに欅坂の曲をさせないように見えてしまいます。
ケヤカスと呼ばれる人たちが(自分も含めて)欅坂への強いこだわりを持つことにステータスを置くとするならば、運営も「欅坂の曲を披露させない」ことにステータスを見出している、少なくともそういうふうに見えてしまうというか。
仮にそうだとすると、他でもない、誰よりも「ケヤカス」なのは運営である、ということにもなりはしないかと。
そう書いておきながら、でもそうだとしてもそれも理由がありそうな気はするし。
これも前述のとおり、MC13回、ということで、生で観ていた自分はいちいち回数など数えてなかったんですが、確かに通常のLIVEよりは多かったです。
でも、私はそれを批判する気はない。
おそらくこの回数を批判している人こそ、まさしく「ケヤカス」なのではないかなと。つまり、欅坂時代の、あの畳み掛けるようなセトリ、MCを極力排したあのセトリに魂を揺さぶられ、記憶の底にこびりついた人たちではないでしょうか。
誤解しないでいただきたいのですが、それ自体が悪いと言っているのではありません。私自身も、定義的にはケヤカスなのだろうし、気持ちはとてもよくわかります。
ただMCをもっと少なくして曲を多くしろ、というのはちょっと違うのではないかなと。
MCにはMCの良さがあるわけです。まして今回は合同なので、お互いがお互いのことについて触れる内容、メンバーしか知らない話はかなり貴重なわけです。それがその場で聞けただけでも私にとっては至高の時間だった。
そして何より最大の理由は、彼女たちは既に「欅坂46」ではない、ということです。
その圧倒的な世界観がまずあって、それに沿うためにはMCを排した形でしか表現できなかった。だからあの怒涛のセトリになると私は思っていますし、要は欅坂ならではの流れだったのではないかなと思うわけです。
だとすれば、既に欅坂46ではない彼女たちには、今の彼女たちの表現方法がある。
だから、あれはあれで私はありだったのではないかと思っています。
どこかで「前向きなお別れをしたのだから、簡単に時を戻すはずがない」という言葉も目にしました。
改名発表時にゆっかーが言ったセリフではありますが、私はドライなのかなんなのか、その言葉にあまり囚われる必要性を感じていません。
逆に言うと、前向きなお別れをしたのが事実だとしても、そこから戻ってくるのがそんなにいけないことなのか、という想いがあります。
それも、例えば、櫻坂がまた欅坂に名前を戻します!ということならそりゃ違和感もあるでしょうけど、一年に一度(一度でなくてもいいですが)欅の名のもとに欅坂の曲を披露することが、そんなに批判されることなのでしょうかと。まぁ世の中にはいろんな人がいますから、改名という事象にこだわってあーだこーだ言う人はいるかもしれませんが、ほぼ間違いなくそんな人よりも、欅坂の楽曲披露を観たいと思う人の方が圧倒的に多いのではないでしょうかね。
もし運営がケヤカスのボスだとして、意固地になってるようにも思えるほど欅坂の楽曲披露をさせないことに拘るとすれば、その原動力は何なのか。
例えば、日向坂46・潮紗理菜さんのブログは話題でした。
このブログの特筆すべきことは、こういうときよくヲタクだけが騒いでいてSNS上では盛り上がっていても、そこだけの話で終わるということはままありましたが、少なくともメンバーの中に同じ気持ちの人がいた、それを言葉にして発信してくれた、ということではないかと。
なっちょの素晴らしいところは、もちろんだからといって恨み節で終わるわけではなく、前向きにプラスに捉えているということを表明している点です。
もう一つ。その内容で運営がOKを出したこと。
ここに一つのヒントがあるかもしれません。
前向きな内容で締めているとはいえ、欅坂の楽曲が披露されなかったことへの疑問が書かれているのに、それを発信させた。何も意図がないなら、何も考えてないと言わざるを得ない。そして流石にそれはないだろうと思うのです。
もしかすると、私たちの側が欅坂の楽曲をまた観たい!と思う気持ちと、メンバーのそれとは似て非なるものなのかもしれません。
まして日向坂メンバー、それも当時のひらがなけやき1期生の気持ちだと尚更違う気がします。逆に言えば、だから前向きな気持ちが書けたのかもしれない。
私は思うのです。
ファンの側だから言うのは確かに簡単。
でも並々ならぬ思いで、それこそもしかしたら運営に止められるかもしれないことを書いてまで自分の気持ちに正直になってくれているメンバーもいるのに、恨み節ばかり言って何が変わるのかと。
ただその一方で言いたいことがないわけではなく…
これだけ欅の名の下に人が集まり、とある期待をしながらある人はその場に座り、ある人は画面の前で待機していたことだけは、ほぼ間違いなく事実としてあって。
ということは、おそらく万の単位で「欅坂46」というものを待っている、望んでいる人がこれだけいるんだということにもなるわけで。
何なら、演者であるメンバーの中にもそれを待ち望む人がいて。
それでも本当に「前向きにお別れしたんだからもうやりません」というのは、いったい何のための拘りなのかと。これだけ多くの人が期待しているものに蓋をすることが、どれほどの意味を持つのかと。
まぁまさにアンビバレント。
それにしても、このW-KEYAKI FES.、欅という名前に拘るというか、強い想いを言葉として感じさせてくれたのは、なっちょを始めとする日向坂メンバーの方だったようにも思えます。
当の櫻坂メンバーは、相当複雑な心中かもしれません。
もはや勝手な想像ですが、このフェスが櫻坂としては初の有観客の場所で、櫻坂の楽曲を披露するのが最初だったと。その意味を大きく持たせたいのに、例えばそこで欅坂の楽曲を披露してしまえば、申し訳ないけど話題性が持っていかれるのは間違いなく、そのことはメンバーももしかしたら気づいていたかもしれない。
もしそうなってしまったら、櫻坂46としてあの場所に立つことの意味って何?
という考え方が生まれても不思議ではありません。
欅坂はもちろん嫌いになったわけではない。でも今の自分たちは櫻坂46だし、それを観てもらいたい、という気持ちは当然あったはずです。ここで欅坂をもう一度引っ張り出せば跳ねるのは間違いなくても、櫻坂としてはどう感じればいいのか、とか。
そう思うと、もしかしたら軽々しく欅坂の曲をやりたい、と言えないのではないかと。
この辺りが、はっきり言ってしまえば、強すぎる欅坂を乗り越えなくてはならない彼女たちのジレンマなのかもしれません。
あれだけの存在になった「欅坂46」です。そこに関わった人の相当多くが、今でも心の中に棲まわせているに違いない。そしてその想いは種々雑多だと思われます。
翻って、私の想いはというと。
やはり「W-KEYAKI FES.2021」という名称だからこそ、欅坂の曲披露を期待はしました。これはおそらくですが、あの場所にいた多くの方々も同じだっただろうと思うのです。
そして、それは叶わなかった。
そうか、やはりそうなのかと…
実は妙に納得してしまった自分もいました。
何故か…説明が難しいんですが、やはり櫻坂46として走り出した彼女たちを、また欅坂の世界に戻してしまうのは、彼女たちの心の奥底にあるものと相談したとき、一人の演者としてみんなが納得できるのかと。全員が一つになって欅坂の楽曲を披露することができるのか、できないとすればまたたくさんの時間をかけて話し合いを重ねて作り上げていく必要性が出てくるし、それをやっている時間があったのかと言われれば…
実は私たちは、彼女たちが欅坂の曲を披露することを、あまりにも軽く考えているのかもしれません。
ただ自分たちが観たい、という想いだけで、彼女たちに負担を強いているのかもしれません。
まだ全員の想いが表されたわけではありませんが、このLIVE後の櫻坂メンバーのブログに、欅坂の文字を見ることが意外なくらい少ないのです。
LIVE終了後にブログをあげてくれたメンバーに共通して言えるのは、櫻坂としての初LIVEを観てもらえたのが嬉しい、ということ。
そこに欅坂の楽曲を披露したかった、という想いはあまり感じ取れません。
いえ、もちろんあったのかもしれないけど、それ以上に櫻坂46を見てほしい、という想いの方が強いような気さえするのです。
もしそうだとすると、そんなメンバーに対して、欅坂の曲をセトリに入れろと求めるのは、ある意味酷だったのかもしれないのです。
ヲタクがヲタクになった理由は、様々でしょう。
欅坂に自分が救ってもらった、という話もよく聞きます。だからもう一度聞きたい、とすれば、それは本当に素晴らしい理由です。
そこまで行かなくても、欅坂のパフォーマンスに目を奪われた、その頃の彼女たちが忘れられない、という方々。それも本当に彼女たちが聞けば泣いて喜ぶかもしれません。
だからこそ、そういう方々が「W-KEYAKI FES」と聞いて、期待しないはずがない。それは私も同じなのでよくわかります。
ただそれは、いい悪いとか正しい間違ってるは別にして、全てヲタクの主観からくるものです。
「自分が」観たい。
「自分が」聞きたい。
だから期待をする。
物凄くシンプルな、理由。
ただその尺度は、全て「自分」であって。
そこに抜け落ちているのは何でしょう。
それは、自分が推している当のメンバーの想いです。
櫻坂のメンバーは欅坂のメンバーだったし、欅坂のことが好きなはずだから、当然欅坂の曲をパフォーマンスしたいはず。
ヲタクはそう考える人も多いでしょう。でもそれも、主観なのです。
本当にそうなんでしょうか。
自分たちは櫻坂としてこの場にいるのに、欅坂の曲をやっていいのか。
そういう迷いがもしあったとして、それが解消されないまま、例えばサイマジョやセカアイや、ガラ割れなんかを期待して、さらに欅坂時代以上のパフォーマンスを望んでしまう。
あなたは、あなたの推しメンにそんなプレッシャーを与えてまで、欅坂の楽曲披露が見たいですか。
もちろんそう考えてしまう、私の想いとて主観です。それも全員がそうとも限らないし、メンバー間の中でも温度差のある話でしょう。
ただ逆に言えばそういう意味での足並みの整わなさは、欅坂の楽曲のように、一つの方向に向かっていく爆発性を伴う曲の披露にはあまりにも大敵と言わざるを得ません。
なっちょとは全く違う理由ではありますが、そういう意味で私は、欅坂の楽曲披露がなかったことに妙に納得してしまったところがあるのです。
一方で、巷で言われるように、今後一切披露しない、完全なる封印とは私は思っていない。
封印することに意味が見出せない。
彼女たちの想いが、もう一度欅坂を全員でやりたいんだという方向性として一致したときが、おそらく「そのとき」だと思うわけです。
櫻坂として走り出している今、想いがバラつくのは当然。
時間をかける必要があると思うのです。
私は決して、勝手に期待して勝手に落胆して文句を言うのは違う、とは思いません。ヲタクとはそういうものだと思うし、自分の中にも少なからずそういう部分を認めてしまっています。
でも、だからこそ冷静になりたい。
欅坂の曲は、全員が魂を削って踊る。
だとすれば、半端は許されないわけです。
メンバーはもちろん、見るほうにだって「覚悟」が求められる。
改名した後の今は特にそうだと思います。
メンバーみんなの気持ちが一つを向き、感情がまとまって、最高の形となったときの欅坂の楽曲が見たい。
そこには、櫻坂要素も加わった欅坂46がいると思います。
欅坂×櫻坂などという強さが、他のどこにあるというんでしょう。
そしてその強さの中心にあるのは、やはり魂です。気持ちなんです。
だから、待ちませんか。
彼女たちが本当に、心の奥底から、欅坂の曲を披露したい!と思えるまで。
ケヤカスという言葉が、亡霊という言葉が嫌いな自分が言うことではないですが、、、
その言葉を本当に使っていくのであれば。
欅坂46が本当に好きであること。
と同時に、その欅坂を披露する側である彼女たちメンバーの気持ちに想いを馳せる人でありたいし、そうあってほしいなぁというのが、櫻坂46としてのステージを生で観て感じた人間の提言である、ということです。
W-KEYAKI FES.2021 DAY3参戦記。
次のブログではセトリを追いながら曲の感想を綴りたいと思います。
また少し時間かかるかもですが、お待ちいただけると幸いです。
私はケヤカスという言葉は好きではないですが
ケヤカスの想いは大好きです。
(追記)
当ブログを執筆し終わったあとに、更新された小池美波さんのブログ。
まさしく自分が想像したとおりだったなと…
ただこれも、みいちゃんはそうだとして、他のメンバーとは多少なりとも温度差があるのが当然で、その足並みの揃わなさが、欅坂の楽曲を披露するときの足枷なのではないかな…と思うわけです。
改めて申し上げます。
メンバー全員が同じ方向を向き、同じ想いの強さでもう一度欅坂の楽曲をパフォーマンスしたいと思えるとき。
その瞬間を、私たちは待つしかないのです。
欅坂が今でも好きで、ケヤカスだ亡霊だと自分のことを言うのならば、なおさら彼女たちのことを待ってあげませんか。
私たち以上に、欅坂46に対して強い強い想いを抱いているのは、他ならぬメンバーなのだから。