櫻坂日向坂の上り方

ブログ移転しました…長い間本当にありがとうございました!

ひな誕祭を見れなかった私が書く約束の卵ー日向坂46、約束の場所へ 2022年4月3日付

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東京ドームというのは、どうしてこうも特別感のある場所なのだろうか。

ある意味の達成感というか、ゴールではないにせよ、一つの節目を感じさせる場所というか。

そもそもが野球場であって、ライブ会場でもないはずなのに、多くのアーティストがこの場所でのライブを望む。

もちろん5万5千人というキャパを埋められるというのがドームライブの開催条件で、それはほんの一握りのアーティストにしか許されない。そういうステータスはある。

 

日向坂46が、Road to TOKYO DOMEを掲げて走り出し、それを目標にして。

「約束の卵」という楽曲をもらって、そこに至るストーリーは動き出した。

この曲が初めて世に出たのは、確かひらがな時代のアルバム「走り出す瞬間」に収録されたときと記憶している。

当時はまだ井口眞緒がいて、柿崎芽実がいて、3期生はまだいなかった、というタイミング。

そして何より、デビューがアルバムであり、単独CDデビューを果たして記念すべき一枚に収録されていたということ。

このときの彼女たちが、東京ドームでライブ、などというのは当然壮大な夢なわけで、正直な話、彼女たち自身本当にそんなことが実現できるのだろうか、という思いもあったはずだ。

 

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よく漢字欅ひらがなけやきは比較されたり、当て擦りをされたりと語るに難しい関係性に置かれる。

そもそもひらがなの誕生そのものが予定されたものではなかったので、位置付けすら曖昧なままで走り出したのは紛れもない事実。その証拠に、この二つのグループを知らない人に説明するのはメンバーでもなかなか難しかった。

 

二グループの転機は、私は今でも2018年の欅坂46日本武道館公演3daysをひらがなが務め上げたことにあると思っている。

 

当時、欅坂界隈は本当に心配の声に溢れていた。ひらがな3daysで客が埋まるのか。もちろんそういう声が大半だった。それは何より、彼女たち自身が最も強く感じていたことだっただろう。

だが、彼女たちは自分たちの努力でその成功を手中にした。

自信になったメンバーもいたはず。

いや、もうとにかく終わって良かったという安心感しかなかったメンバーもいただろう。

逆に、次のことなんか考えられないくらい焦燥感に溢れたメンバーもいたかもしれない。

でもそれは、その成功は、確実に彼女たちの「経験」になった。

 

「約束の卵」という楽曲を渡されたとき。

その歌詞を意味する場所がドームだとわかったとき。

彼女たちの心中によぎったものはどんな想いだったか。

 

 

 

 

 

…そこから、数奇な運命を辿る数年が過ぎた。

 

 

そもそもグループの誕生のしかたからしてイレギュラーだった彼女たちには、その道に何が待っていても不思議ではないのだ。

冠番組を欅坂とは別に持つことも。

その冠番組のMCであるオードリーと融合することでグループに幅を持たせたことも。

単独シングルデビューも。

そのデビューに際して欅坂から離れて改名することも。

 

そして。

 

そのデビュー曲で爆発的な人気を掻っ攫ったことも。

 

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実際、ひらがなのアルバム握手会と、1stシングル握手会の会場の人数の違いを肌で感じている私には、その爆発性は身に沁みてわかっている。

明らかに、日向坂46になって人出が圧倒的に増えた。

 

卵の形が、以前よりは朧げにでも形に見えてきた瞬間、とも言えるかもしれない。

 

そこからの、彼女たちの活躍ぶりは、今更言うまでもないだろう。

 

ひなくり2019でのサプライズ発表で、驚きと嬉しさの入り混じる涙に暮れたひなくり2020in東京ドームは、コロナの影響で幻となった。これは誰のせいでもない。

 

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でも逆に言えば、2020年の段階で、彼女たちにドームキャパを埋められるという実力が備わった、そう判断されていたと言っても差し支えない。

その発表から、さらに2年と少し。

 

 

ついに約束の卵が、はっきりと彼女たちの前に姿を現すことになる_____

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女たちはアイドルであるが、夢のない言い方になるけれど、アイドルとは「職業」である。

どんな形であるにせよ、あるいはどんな職であるにせよ、必ずついてくるのが「責任」という言葉。

その場に身を置いている以上、職として全うしなければならない、ある意味の義務が生じる。

彼女たちがドームに立って、歌い舞う。

そしてそれ以上に、観る側である私たちに夢を与えるのが「仕事」ならば、当然それを全うしなければならない。

 

当然彼女たちだけではない。

私たちも私たちで、日々を生きるために、彼女たちと同じく職を全うしなければならないのである。

 

しかし、双方が双方の責任を果たそうとするがために、巡り会えない現実もそこにある。

 

3月末は、確かに日向坂46にとって大切な期間。

ただこの期間は私にとっても、春期講習の授業を展開するという大切な期間でもある。

ひなくりも冬期講習直前もしくは真っ最中であり、ひな誕祭は春季講習直中であり、本当に日向坂の節目には私は巡り会えない運命だ。

それでも抵抗はした。

ドームに立つ彼女たちだけはどうしてもこの目で見たい。

交渉は熾烈を極めた。

普段の授業なら、休むことへの道は無理やりこじ開けている。

しかし、特別授業となると話が別だ。

なにせ生徒の休み期間だから、授業も朝からになる。そこの代わりがいない。

午後だけ休まされても、意味はない。

 

…意味は、ないんだ。

 

結果、諦めるしかなくなった。

 

まあ、人生というのは不条理がつきものであって。

それはそう短くない半生を過ごす中で分かりきっていることではある。

あるけれど、ね。

 

1月の、櫻坂46BACKS LIVE参戦。このときにはすでに、ひな誕祭不参戦がほぼ決まっていた。

だからこそ、行けるときに行っておきたくて、まだ日向坂の色の全くない東京ドームに向かった。

 

その日は何のイベントがあるのか、全く知らない。

行き交う人々の、憩いの場所となっている実に穏やかな空間だった。

そこで、私は一人、日向坂46がこの場所に立つ姿に思いを馳せた。そんな彼女たちへの感謝と祝福と激励を、約2ヶ月半後にここに来る彼女たちに向けて置いていった。

 

 

 

 

 

 

春期講習は、約一週間しかない。しかしその短さの分、授業が詰め込まれるので拘束時間は長い。そしてハードだ。

ひな誕祭初日。この日は少し早めに切り上げられるのでリピート配信を観た。

少なくとも途中までは。

 

そこまでの5日間の疲労の蓄積が祟ったのだろうか。

 

気づけば、午前3時。

 

寝落ち。

 

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彼女たちがドームに立った姿を見たのは、夢幻だったのか、と思えるほど…

どこから寝落ちしたのか、全く記憶にない。

 

翌日も早いために、寝落ちの悔しさを感じる暇もなく、そのまま就寝。

 

2日目は講習もフルなので、帰宅したら午前0時前というタイミングであり、リピート配信すら不可能な状況。

 

 

 

私と日向坂46というのは、実にずっと数年間、こういうすれ違いの中で関わってきたのだ。

思えば、ひらがなのアルバムツアーもそうだった。

大阪公演の当日は珍しく平日休日で体は空いた。ところが、その日に健康診断が入ってきて、バリウムに弱い私はライブどころか一歩も出られなくなった。

2020春の全国アリーナツアーも当選していた。しかしこちらはコロナのせいで払い戻しの憂き目に遭った。

コロナといえば、ひなくりドームならば有給で行けた。これも邪魔された。

 

 

だけど、と言うべきか。

だからこそ、と言うべきか。

 

ひな誕祭に立ち会えなくても、参戦された方々と同等の想いは持ち合わせている。

 

 

良かった。

本当に良かったね。

ひらがなからの歴史を知る人は、心からそんな言葉を口にするよね。

自分が何のためにそこにいるかわからない、かつてそんな想いを抱いていた人たちが

ドームのステージに立ったのだから。

 

そしてメンバーみんなが、真摯に自分の置かれた環境を見つめて、自分の為すべきことに邁進してきたことを知っているから。

いろんなことがあって、思うとおりにならないことが多かったことも知っているから。

…その活動の中で、体の不調に苛まれたメンバーがいることも知っているから。

 

 

物事のお祝いは、世界のどこに居たって達成できる。

でもできれば、その場でお祝いしてあげたかったよね。

 

 

 

目標は、達成された。

しかし約束は、決してゴールではない。

約束の卵は、通過点でなければならない。

次の約束をどこに設定するか、それも彼女たちの未来や運命の方向性を大きく左右するだろう。

 

 

日向坂46のメンバーへ。

卵と似た形は、他にもたくさんあるんだよ。

 

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記憶の底で、心にずっと寄り添う楽曲であれー櫻坂46「五月雨よ」MV解禁 2022年3月11日付

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つくづく、感情を理論で説明することが、いかに愚かなことかと感じさせられる。

もちろんその感情にも本当は原因があって、それが自分で気づいていないか、或いはいろんなものが混ざり合ってわからなくなっているだけか、そういう事情もあるだろうけど。

でもそれを探るということは、極めて無粋だし、そもそも意味を感じない。

 

涙が流れる。

その自分を享受し、その状態に身を任せる。それでいいのだけれど。

敢えてその、愚鈍で無粋で無意味なことをやってみようと思う。

 

櫻坂46、4thシングル表題曲「五月雨よ」MV解禁。

 

 

 

 

櫻坂46を、欅坂46からずっと見てくると、勝手に歴史の証人の立場に自分を立たせることになる。

もちろん、本当の歴史の証人は当のメンバーたちであり、彼女たちを支えるスタッフの皆様であるのは間違いないのだが、表だけしか見ていないとはいえ、そして真実の全てではないとはいえ、一部の「真実」をずっと見てきた自負がある。

 

様々な事象があり。時にはその節々での彼女たちの心情にも触れ、それによってこちらの感情が爆発したり、しそうになったこともあった。

 

ずっとその流れを見てくると、今ここまで来て、この曲を情感たっぷりに歌えるグループに昇華したことが、こんなに尊さの塊になるのかと。

 

切り取られた瞬間瞬間に、尊さの光が放たれる。

 

 

 

 

 

今回のMVは16mmフィルムで撮影されたという。

その違いは、最初に見た瞬間にわかった。

 

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何が違うのか、細かいことはわからないものの、一瞬でその違和感にだけは気がつく。

でも結果的に、これが倍の涙を誘う。

 

 

当然の話だが、彼女たちの全てを知っているわけではない。私たちに見せない、見せられない部分はあるだろうし、それは何も彼女たちに限った話ではない。もっといえば、私たちの方だって彼女たちに見せたくない面はあるだろう。それはお互い様、というものだ。

それを前提として、敢えて言う。

櫻坂46には、全てにおいて器用なメンバーがなかなか存在しない。

でも、何でもソツなくこなすということが、それほどいいとも私は思っていない。

不器用だからこそ、人間味があって。

不器用だからこそ、それを克服しようとしている姿が愛せる。

一人の人間として、何かに悩み、嬉しいことも悲しいことも、私たちと同じように経験しながらそれでも日々を生きていく。

 

アイドルは偶像だ。そうかもしれない。

でも、間違いなく言えることは、その場所に確かに存在している。生きている、ということ。

私たちと同じ人間であるということ。

であるならば、私たちと同じ感情を有し、いろんな想いを経験しながら生きているのだって同じはずだ。

 

その一端でも目にしてきた私たちが、彼女たちに感情移入して、その姿に涙を流すのは、極めて自然なことである。

 

欅坂46は、ムーヴメントにまでなった。

名前が売れる、ということは、虚実入り乱れたいろんな話を駆け巡らせる。

アイドルグループとしては大きくなった彼女たちであったとしても、それをうまく泳ぎ切れるほど個人個人が成長していたかというと、とてもそうとは言い切れない。

だから傷つく。

傷ついて、傷ついて、涙に明け暮れて。

最後は、自分たちの存在の基盤であるグループまで、改名という形での変化を余儀なくされた。

 

そんな彼女たちが、あんな柔らかい表情で、人を想う気持ちを歌う。

 

その一連の過程を知りながらそんな表情を見て、涙しないという意味がわからない。

 

 

 

 

例えば、櫻坂を代表する曲になるだろうとか、売上がどうなるこうなるとか、MVの再生回数がどうとか、他のグループと比べて云々とか、確かにそれらもビジネスとしては大切かもしれない。

 

大切かもしれないけど、下世話だ。

 

心に響くものというのは、時としてビジネスと相容れないことだってある。

 

本当に心に響くものであれば、時が経ってもずっとずっと残る。

残りさえすれば、そこから少しずつでも伝播していく。

 

楽曲そのものが、歴史の証人になるのだ。

 

短い期間で売れて、そのまま消えていく。記憶にも残らない。そんな消耗品のような曲なんて、櫻坂46には似合わない。

 

心に残り、そしてずっと寄り添う。

 

そんな楽曲こそが彼女たちにふさわしい。

 

 

 

 

「五月雨よ」

 

この曲はそんな曲になってほしいし、なってくれると信じている。

 

 

 

 

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予定調和なのか、それとも…ー日向坂46、新メンバーオーディション開始 2022年3月8日付

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2022年3月6日。受験生に最後の授業をして夕方には帰り、夜にはしばらくぶりでツイキャスを行なった。

キャスはその場だけの話もあるので、内容について多く語る気はないけれど、実はその中で話していたことの一つに「日向坂46の東京ドーム公演で何が起きるか」というのがあった。

小坂菜緒の復帰をドームで発表しなかった。これは個人的には歓迎したい。ドームでそれをやってしまうと、全員で約束の卵達成!ではあるものの、なお復帰のインパクトが大きすぎるし、何より彼女自身へのプレッシャーが甚だしい。

ただ、それだけの超インパクトな情報をドームより前に発表したことで、俄然ドームでは何が起きるか、に注目する向きが多くなるのは当然だ。

 

その中の一つとして、私がツイキャスで触れたのが「日向坂46、4期生募集」という話だった。

 

なんとなくの流れとして、坂道合同オーディションとして一緒にオーデを行なった乃木坂46は5期生を加入させたタイミングでもあり、こちらもその流れはあるかという予想である。

 

ただ私でなくても多くの人が思うであろうことは、「日向坂より櫻坂の方が先ではないか」という予想を裏切ってきたことが意外だった、ということだろうか。

櫻坂は卒業生や卒業予定のメンバーが相次いでいる。日向坂は今のところ、小坂菜緒も復帰してフルメンバーが揃った。この状況で考えたときに、日向坂が先にオーデを行うというのは違和感がある、ということなのだろう。

ただ、「約束の卵」におひさまをいよいよ連れていくことになるこの時期は、どうしても〝日向坂46第1章完結〟という区切りの空気は出てしまう。でも逆に言えば、新しい第一歩を踏み出すのであれば、これ以上のタイミングはないのである。

 

ただそこまでは私でも予想できたものの、まさかドームより前に募集をかけてくるとは思いもしなかった。

ということは、ますますドームで一体何が発表されるのか、わからなくなってくるからだ。

 

なにせ日向坂46、前身のひらがなけやき時代から、彼女たちはサプライズ発表にその方向性を決定づけられてきた運命がある。

 

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そして、LIVEでの発表ではなかったものの、もちろんこれはその代表格。

 

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サプライズというものは、とにかく慣れない。

もちろん慣れてしまえばサプライズでは無くなってしまうのだけれど…

その発表が持つ重要性があればあるほど、発表する側もそれなりの舞台を用意したくなるのは当然のこと。

 

でもそれで言うなら、小坂菜緒の復帰も、新メンバーオーデも、グループの今後にとっては相当な重要性を持つ情報だったはずで、それがドーム前に発表されたとなると、何かこう、身構えてしまうわけである。

 

しかし、そのことは今回のブログの趣旨と少しずれるので、別機会に譲るとして…

オーディションである。

 

前述のとおり、ちょうど乃木坂46でオーディションが完了し、5期生が発表され、なおかつ29thシングルでその5期生がセンターとなる、という「波」が起きて。

楽曲の振り付けその他に加え、そのセンターである中西アルノの問題があって乃木坂界隈が荒れ狂い、ついには加入間もない彼女が活動自粛に追い込まれる、という出来事を傍目にしていたおひさま。

そこへ降って沸いたような、今回の新メンバーオーデ。

 

今回TLでやはり多かったのは、「新メンバーは歓迎するけど、全員選抜は維持してほしい」という声。

これは当然予想されたことである。

そしてこれは、とりもなおさずメンバー自身の願望でもあるからだ。

 

news.yahoo.co.jp

 

これは運営がどう考えているかによる話なのだが、櫻坂の場合は前身の欅坂46がそれこそ21人の絆といわれた程の繋がりがガッチリあって全員選抜が8thまで継続された。もちろん、その中でいろんな紆余曲折があったことは伝わってきている。

9th云々で「何か」が立ち行かなくなってしまっての改名、と運営が捉えていたのだろう。少なくとも私は決して失敗だとは思っていないが、失敗だと捉える向きが内部にあって、だからこそ欅坂時代と手法を変えてきたのではないかと私は考えている。それが櫻エイトであり、表題の選抜制であろう。

風吹かの頃にも漢字ひらがなの合同選抜で波が起きたという話も聞いたことがあるけれど、この話も今回の内容と趣旨がずれるので別機会に…

運営は実際9thから選抜制度をとる、とあのときカメラ前ではっきり言っていた。運営が選抜を口にするようになると、「何か」が起きるのが欅坂46だった。

 

日向坂の場合は、欅坂の場合とは違った意味合いでの結束力という感じはするが、欅坂とのおそらく大きな違いは、現状の日向坂の何かを変えたい、と考える向きが内部にあるのか、と思わされることだ。今の全員選抜を変えて、選抜制度にするならば、そのメリットがどこにあるか知りたいのは、別にキャプテンでなくとも同じこと。

 

何名が4期生として加入するかによっても話が変わってくるとは思うけど、合格者多数となったら選抜は避けられないかと…というより、話が逆で、そもそも選抜制をとる準備としての新メンバーオーデだった、ということになるのではないかと思っている。ただそうなると、欅坂時代の選抜制導入と同じような「何か」が起きる可能性は考えておく必要がある。そしてそれは今の日向坂46にとって本当に必要なことなのだろうか。

 

話は戻るけど、中西アルノ騒動を見ていたおひさまは、どんな想いだったのだろう。

対岸の火事、などと思っていた人もいたのではないだろうか。

アルノが可哀想、と思っていた人も、いざ自分が推すグループで同じことが起きたらどういう言動行動になるのか、想像したことがあるだろうか。

 

掌返し、などと揶揄するつもりはない。

それが起きるとすれば、それこそ中西アルノが述べていたとおり、グループへの愛が深き故、とも言えるからだ。

だがそれが正しいかどうかはまた別の話。

何故なら、本当にグループやメンバーのことを想ってのことなのか、それともただおひさま自身が見たいものが見られなくなるという利己的な考え方からくるものなのか、分けて考えないといけないからである。

 

日向坂4期生が入り、その次のシングルでいきなりセンターに抜擢される、というようなことがあったら…

 

 

 

 

 

 

人は、基本的に保守だ。

現状をなるべくなら変えたくない、そんな思いがどうしても根底にある。

変化に身を投じる、というのは、エネルギーが必要だからだ。

そして、年齢を重ねていけばいくほど、その傾向が強くなる。

たとえ現状に満足していなかったとしても、何かを変化させることへの恐怖がつきまとい、それなら現状維持を、と望む。

 

まして、現状に満足しているなら、なおさらだ。

 

でも、何かを打破するとしたら、自ら動くこと以外にない。

自ら変化をつけるしかないんだ。

 

日向坂46というグループが、ひらがな時代からのルーツとして、とにかく変化の中で生きてきたことは、おひさまなら知っていること。

明日の自分の姿さえ見えず、とにかく必死で毎日を過ごしてきた彼女たち一期生に、グループの形などまだ見えるはずがなかった。

入ってきた二期生は、その誰もが、グループを形作るのに必要な人材であった。彼女たちが入ってきて、グループの目指すべき形、方向性がはっきりした。

さらにグループを発展させるために、加入してきた三期生。先輩に深く愛され、そしておひさまにも愛されての日々は周知の事実。

 

そして。

 

約束の卵がついに大団円を迎える、ひな誕祭東京ドーム。

そしてそれは、高瀬愛奈が言うまでもなく、ゴールなどではない。「次」へのスタートの場所である。

 

新しい風を吹かせることで、日向坂46が次に作り上げるのはどんな形だろう。

 

 

 

 

 

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秋元康が櫻坂46に詞を書く「心」にアプローチするープロデューサーが本気になる瞬間 2022年3月3日付

あるとき、Twitterでよく見かける「note」というブログが気になって、試しにどんなものか使ってみようと思ったのがほぼ一年前。

ちょうどこの頃に円盤化された欅坂のドキュメンタリー映画の感想を一本書き、はてなとの違いを感じてこちらに戻ってきた、というのが実情だった。

 

note.com

 

ただせっかく開設したものの、放置してるのももったいないなという想いがあり、昨日はとくにそのことが気になったので、もう1本記事をあげてみた。

 

note.com

 

こちらにもあげた、例の乃木坂騒動。その後日談から見えてきた、乃木坂を推す方々と欅坂を推す方々との違いを私なりに解釈してみたブログとなっている。もしよろしければ…

 

ブログというものは、自分の手をいったん離れてしまうと、それは自分のものであって自分のものでなくなる。書いているこちら側の想いと、お読みいただく皆様の想いがどれだけフィットするかではあるものの、一方で一つの事象を見つめ感じることが、そうそう完全に一致するとも思えない。つまり、その一文字一文字をご覧になり、お感じになったことがすべてであって、そのどれをも私は否定するつもりはない。

だから、書きあがった後の校正で誤字脱字をチェックする以外は、あまり自分のブログを読み返すということはないのだけれど、久しぶりにnoteの最初の記事を見て、一年前あのouttakeまで観て感じた自分の想いにもう一度触れたくなり、読んではみた。

 

そこで思い出したことがある。

 

つい昨日のことであるが、御大秋元康が乃木坂のラジオにゲスト出演して、こんな発言をしたという話。

 

https://twitter.com/hinatazakablog/status/1499071968938983430

 

例え話として出したのか、それとも今これを書いてる瞬間に日向坂のMVが撮影されているのか、言い方としてはとても微妙な感じではあった。それはともかくとして、ここで思い出したのは、欅坂ドキュメンタリーの中で、9thシングルが結局幻と終わったちょうどその頃、次期シングルどころか解散に言及する声があった(本編だったかアウトテイクだったかは定かではないが)。

次のシングルを出そうかというグループが、何故解散というところまで追い込まれなければならなかったのか、それは未だに100%理解できてはいない。一部切り取られた内幕を見ただけで、外野である私たちがその事情を知ることは、永遠にないかもしれない。

 

文春だかなんだかが、秋元康が欅坂はもう解散にしようと言ったとか報じていたが、もし文春なら話半分に聞いておこう。

 

よく感じるのは、一体楽曲というのはどのタイミングで作られているのだろう、ということ。

例えば、櫻坂46の4th「五月雨よ」は、2022年4月6日発売であるが、この曲の表題選抜が告げられたのは、年明けのBACKS LIVE前だった、という話がある。この頃に「五月雨よ」という楽曲が表題に決定していたかどうかはもちろん知らないが、もし決まっていたと仮定すると、この曲が作られたのはさらにその前であるし、なんなら秋元康が詞を書いたのは昨年冬以前、ということになる。

もっと遡れば、欅坂46が活動休止となった2020年10月のLAST LIVE。欅坂界隈の方々の多くはご存じだろうが、ラストのラストで披露されたのは、櫻坂46としての1stシングルとなる「Nobody's fault」だった。12月発売のこの曲が、この時点で音源はおろか、振り入れまで全て終えられていたのである。

 

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ということは、この曲の歌詞を秋元康が書いたのは一体いつか。

もちろんストックから出してきた可能性もあるが、書き下ろしだとすると、少なくとも活動休止が発表された配信ライブの頃にはすでに詞を書き始めていた可能性だってある。仮定ばかりでは論が進まないのだけれど、櫻坂46という形もまだない時点でこの歌詞が書けるものなのだろうか。

 

秋元康ならできる、とも思えるし、一方でそれは大海原に落とされた小石を拾おうとする行為にも似る、とも思える。

 

前提が非常に長くなったが、今回言いたいのは、秋元康が欅坂を解散させたい意向を本当に持っていたとすれば、櫻坂46となった彼女たちにあれだけの歌詞が書けるのか、ということである。たとえ職業としては職人級である作詞家であったとして、その心の中に何が生まれればそんなことができるというのか。

 

できる、と仰る方もいるだろう。

もうそうなると、少なくとも私には絶対に真似のできない芸当である。

 

何故なら、私は自分の弱点がどうしても「情に脆い」部分であると認識しているからである。

それは長所にも短所にもなり得る。

人間としては、私は人の情けに触れて心が動く自分を誇りに思っているし、プライドもある。だが、ことビジネスの場になった場合、情に流されていては成立しない仕事もある。

 

秋元康が、欅坂に対してかつてほどの興味がなくなっていて、なおかつその後継グループである櫻坂にあれだけの歌詞を書けるとしたら、情の部分で割り切りができてこその「仕事」であるとしか言いようがない。

 

…ただやはり、疑問だ。

 

本当に秋元康は、欅坂46、そして櫻坂46に興味を失っているのだろうか??

 

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個人的にはやはり、そうとは思えない、ということを記しておきたい。

 

 

「五月雨よ」「僕のジレンマ」それぞれの音源が解禁されたあと、秋元康の本気を見た!という言葉も目にした。もちろん個人的に知り合いでもなんでもないので本質的な部分はわからないのだけれど、同じ人間という種でわかることだけ連ねれば、プロデュースする立場として思い入れが0ということはあり得ないし、仮にかつてと比べてその思い入れが減っていたとしても、今まで見てきた彼女たちをモチーフに詞は書けるはずなのだ。

 

たとえどんな美辞麗句を並べたとしても、そこに心がなければ、響かない。

私たちのところに届く以前に、彼女たちがパフォーマンスするときに心が入らない可能性があるし、そうなると結局批判されてしまうのは彼女たちになる。

メンバーはおそらく、自分たちのために楽曲を制作してもらったという事実にまず感謝するから、楽曲を届けたいという想いに駆られてそれを必死に形にしようとする。でも、作った人に心がなければ、彼女たち表現しようとする側が必ず何かの「壁」の存在に悩まされることは自明の理で、しかもそれは彼女たちが解決できる代物ではない。

 

作った側にそもそもの「心」がないのだとしたら。

 

人間、という同じ種族であったとしても、自分に到底理解ができない思考の持ち主はいる。いい意味でも、悪い意味でもいる。

だから、自分のわかることだけで全てを語ろうとするほど、愚かなこともない。ある程度生きていると、そのことを実感する。

 

あのとき。

ビジネスとして欅坂46を解散の方向へ進めようとした動きがあったのは確かだ。

当然、それに抗う動きや想いもそこに存在していたはずだ。

メンバーは言うに及ばず、彼女たちを献身的に支えてくれた現場のスタッフの方々が。

そしてメンバーの家族の皆様が。

一体どんな想いで、事の経緯を見守っていたか、それを考えると苦しくて仕方ない。

 

一方でその頃、そんな彼女たちのために「次」の曲の歌詞を書いていた人がいる。

 

もしも。

もしも自分がその「仕事」を任されたら、果たしてその任を全うできたのだろうか。

 

 

情に脆く、どうしても人の想いに寄り添ってしまう自分には、その「仕事」は向いてないか。

ビジネスとして割り切れる人間でなければ、やはり運営側は難しいのだろうな。

 

「好き」でなければ続かない、とはよく言ったもの。

でも、「好き」だとビジネスとしては逆に邪魔なこともある。

 

生きるということは、こういうことの繰り返し。

難しくもあり、かつ面白いもの。

世の中を 思へばなべて 散る花の わが身をさても いづちかもせむー欅坂46は「失敗」だったという意見に対するテーゼ② 2022年2月26日付

世の中を思えばすべて散る桜のようだが
そうしたはかないわが身をどこへやればいいのか

 

西行から批評を頼まれていた20代の藤原定家が、大先輩の歌の批評を2年以上も躊躇していた。

ある日西行が病に臥したと聞き、急いで批評を送ると、西行がとても喜んだ、という話がある。

 

櫻坂46、というグループができ、正しくは欅坂46から転生し、桜という花を今まで以上にしっかり見てきた。花としての寿命は確かに短い。でも翌年また同じように花を咲かせるために、一年間の準備に入る。見た目は儚くとも、その準備に勤しむ姿は、アイドルグループという一見軽く扱われがちな彼女たちの真の姿とオーバーラップする。

桜の儚さを見つめた西行に、当時何があったかはもちろんわからない。しかし、決してその存在は、儚いものではなかったはずである。

 

 

 

 

 

このブログは後編となりますので、できればぜひ前編をお読みいただいてからこちらへお戻りください。お時間の許す限りで結構です。

前編↓

platanus0524.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

欅坂46は、決して失敗ではない。

もちろんそれで済む話ではあるのだが、意外な形で欅坂の存在が坂道を推す人たちの心に残っていることを浮き彫りにさせる出来事があった。正直、実に興味深くこの流れを見ていた。

 

 

乃木坂46から離れてから結構時間も経つので、現状乃木坂のことはよくわからない。

もちろん5期生を募集していたことも、合格者が誰なのかも一応知ってはいた。その5期生の中から、新曲表題のセンターが生まれることも知っていた。

一瞬で、かつての堀未央奈のときのことを思い出した…。あのときの、まるで地獄のような空間と時間。今でも身震いする。

 

この日、乃木坂46時間TVの中で初披露され、センターは中西アルノだと知った。

 

繰り返すけど、私は今の乃木坂46のことは本当によく知らない。彼女がセンターであることにいろんな意見があって、乃木坂のヲタクの中でも結構大変なことになってて、でもそれは加入直後の5期生がセンターだから、ということでもなく、「それ以外の理由」も含まれている、ということくらいしか。

だからもちろん、どうのこうの、と言う気はない。

そちらではなく、私が今回

 

欅坂46は失敗だったのか」

 

というテーマで書いている最中、この乃木坂の新曲が披露されたことで、人々の心にある「記憶」を呼び覚ます結果となったこと、その一点に注目した。

 

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この曲の振り付けを見て、欅坂46を想起した人が相当多かったということ。

それは中西アルノという女性の雰囲気とも相まって、欅坂で長くセンターを務めたあの人とオーバーラップさせた人が多かった、ということでもある。(欅坂界隈で想起した人は皆無だったけど)

曲の雰囲気だけだと、個人的には欅坂の感じはそんなにしなかった。確かに振り付けは似ているな、と感じた部分があった。だから欅坂界隈以外の人が見ると、そう感じる人もいるだろう。

そこまではいい。

 

それについて、乃木坂のヲタクから相当な批判が荒れ狂い、「乃木坂らしさがない」というワードが席巻した。トレンドにも入った。

それも、まぁいい。

私は昔の乃木坂を軽く見ていただけなので、乃木坂らしさが何なのかよくわからないし。

 

ただそこから、その引き合いに出される形で出てきたのが

 

「欅坂のときの失敗を繰り返してほしくない」

 

という意見。

 

これは私としても看過できない。

 

いつ欅坂46は失敗になったというんだ?

そもそもその人は、ちゃんと欅坂を見てきたのか?

私が乃木坂をよく知らないのと同じで、よく知りもしないで書いてるだけじゃないのか?

改名して活動休止したら、失敗なのか?

じゃああれだけのムーヴメントになったことはどう説明するんだ?

 

そうすると今度は

「欅坂の運営の失敗を繰り返してほしくない、という意味だ」

と。

 

つまり、平手友梨奈にグループの相当な重みを背負わせ、潰して行った歴史を繰り返すな、中西アルノを潰すような運営になるな、という意味だという。

 

……

………

平手友梨奈は、潰れたのか?

 

 

 

必死で戦っている姿は確かにあった。

平手に多くを背負わせ過ぎているきらいもあった。

多くの怪我に苛まれ、満身創痍で欅坂と相対していたのはもちろん事実だ。

彼女も自分と戦いながら、それに応えようとしていたところはあったはずだ。

 

結果だけ見れば、平手友梨奈は欅坂を脱退し、欅坂46そのものは改名して欅坂の歴史は終わったように見える。

 

おそらく、だからこそ「潰れた」「潰した」という表現になっているのだろう。

 

 

 

 

でも本当にそうなのか。

 

ここは彼女自身が、彼女自身の言葉で本当のことを語る以外、真実がわかるはずもない。

もしかしたら永遠にわからないかもしれない。

むしろ私はそれでもいいと思っている。

 

ただ、どうにも「潰れた」という表現だけは、ずっと違和感が残っている。平手が脱退したときから散見されたワードではあるけれど、その度に違和感というか、モヤモヤした感じが抜けない。

もちろん、当時の欅坂運営のやり方に全面的に賛成していたわけでもないし、もうちょっと他にやりようもあるだろうと思ったことは一度や二度ではない。

それは確かにそうだが…

 

 

 

前編にも書いたが、欅坂の雰囲気というと、私たち界隈はいざ知らず、一般的にはダークサイドなイメージがあるのは否定し難いところだ。

けれど、ダークサイドなんて誰しも持っているもので、根っから明るい人であっても抱える闇はあっておかしくないし、人間一面だけで全てが語れるわけでもない。そんなのわかりきっていることなのに、表面に見えるものだけで全てを知った気になってしまうのが、また人間の愚かな部分というか。

人間の好悪の感情も結局、深いところを知る前段階の、見た目やイメージや一つの側面で決まってしまっていることのなんと多いことか。

 

今回の中西アルノセンター曲に対する、乃木坂界隈の反応を見ていると、欅坂の雰囲気をよしとしない、乃木坂のイメージはそれではない、というイメージ重視の人が多いことが浮き彫りになった。もっと言えば、声の大きい反対意見の人の中には、欅坂をどうも毛嫌いしているであろう人も散見された。

 

イメージが大切、というのであれば、そのイメージだって作り上げたのはいったい誰だと思ってるのか、と問いたい。

乃木坂のイメージを作り上げたのが運営側なら、欅坂のイメージを作り上げたのも運営だ。

そこに意見するならまだわかるが、乃木坂のイメージで画面にいる乃木坂メンバーは是で、欅坂のイメージでステージに立った欅坂のメンバーは非だというのは、理論が破綻している。

 

ということは、結局感情なんだ。

 

乃木坂が好きで、欅坂が嫌いで、大好きな乃木坂には変わってほしくない、という保守性。

 

 

 

万物流転。

 

 

 

乃木坂が変わってきたのかそうでないのかは私にはわからないが、櫻坂46は常に「変化」と共に生きてきたグループだ。

 

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鳥居坂46のオーデに応募して合格したはずが、いきなりその日に〝改名〟して欅坂46に「変化」して。

その後のひらがなけやきの誕生から何から、おそらく一期生は聞いてないことの連続の中でメンバーとしてずっと活動してきた。

そして、櫻坂46への、通算二度目の〝改名〟という「変化」。

慣れなどしない。

慣れるわけはないけれど、自分たちの環境が流転する中でずっと愚直に活動してきたのが彼女たちである。

「変化」とは仲良くはできないかもしれないけれど、ずっとそばに居る知り合いみたいなもの。

 

櫻坂として今活動している彼女たちに、欅坂時代を感じさせるものはあってほしい、というのは確かに私の本音ではある。

でも、それこそ様々なタイプの楽曲に挑戦してほしいし、様々なタイプの世界観に身を置いてほしい、その世界観を自分のものにしてほしい、という願いも同時にある。

 

「流れ弾」も「君と僕と洗濯物」も「ジャマイカビール」も、それで言うなら全て「櫻坂らしさ」である。

 

私たちは、それを受け入れる。

受け入れる素地はある。

どんな雰囲気でもどんな世界観でも、自分たちのものにしてくれると信じているから。

 

なぜ信じられるのか?

結局のところ、今回の騒動を見るにつけ、一部の乃木坂ヲタクの中にはイメージを何よりも重視するという人がいたということ。つまり

グループ>メンバー、という扱いであったこと。

翻って櫻坂を推す私は、グループのイメージよりもメンバー重視。頑張っているメンバーがすることなら、それこそ乃木坂らしかろうが欅坂っぽかろうが、日向坂を彷彿とさせようが、AKBとオーバーラップしようが、全然構わない。その全てで、しっかりとした彼女たちだけの世界観を見せてくれるはずだし、今までもそうだった。

だから信じられる。

グループ<メンバー、という扱いであること。

 

乃木坂らしさがないからダメだ、と、それでも頑張ろうとしている乃木坂メンバーを批判する。そのことに正義があるのかどうか知らない。私にはあるように思えないが、それも知らないことだから意見を述べるまではしない。

だが、そのことを言うのに欅坂46を引き合いに出すのだけはやめてもらいたい。

こちら界隈では、中西アルノと平手友梨奈が似ている、と思った人は、私が見ただけでも0だ。

中西アルノは、中西アルノ。

平手友梨奈は、平手友梨奈

それ以上でもそれ以下でもないだろう。

 

他界隈が言いすぎるかもしれないけれど、私は欅坂のような雰囲気を乃木坂が纏ったらどうなるか、観てみたい派だ。

乃木坂メンバーの中には、当時の欅坂を相当意識していた人もいたと聞く。

追加で入ったメンバーの中には、欅坂を推していた人もいると聞く。

そんなメンバーがどう表現するか、観てみたいと思わないのかな。

それも「乃木坂らしくないから×」なんだろうか。

もっと言えば、自分が嫌いな雰囲気だから×、なんだろうか。

 

意外と今回の騒動、乃木坂を見ている人たちがかなりイメージに囚われていることが浮き彫りになったというか。

大切にしたいのはわかるけど、ちょっと原理主義が過ぎるんじゃないかなと。

それは乃木坂メンバーにとって幸せなことなのかな。

イメージ、イメージ、らしさ、らしさ。

それを殊の外強調されて、喜ぶメンバーってどれくらいいるんだろうね。

彼女たちの可能性を狭めていることになりはしないのだろうかね。

 

まぁもちろん、他のグループを下げることでしか自分たちが推すグループを上げられない書き方の人はいる。どのグループのファンにもいる。

自分ではそれでグループの価値を高めたつもりだろうが、逆に貶めたことになってるのに気づかない人もいる。

そして、私も当然気をつけなければいけない部分でもある。

 

だから、私も含めてみんなで覚え書きにしておこうじゃないか。

 

自分が推すグループ、自分が推すメンバーを書くときは、そのことだけに集中したほうがいい。

そこで他グループ、他メンの名前を出した瞬間に、それは「比較」になる。

「比較」されれば、影響は他界隈にも波及する。

その人たちがどう思うか、ということまで配慮する必要が出てくる。

嫌いなグループを推している人間がどう思おうが知ったこっちゃない?

それはSNSを使う人間として、最もタブーだ。資格がない。

 

気軽に書くなかれ。

 

そこまでの配慮をもって触れないといけないよね。

 

 

 

欅坂46は、失敗などではない。

平手友梨奈は、潰れてなどいない。

 

そして、全てに対して、リスペクトを。

 

 

 

 

 

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もろともに あはれと思へ 山桜  花よりほかに 知る人もなしー欅坂46は「失敗」だったという意見に対するテーゼ① 2022年2月26日付

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(私がお前を愛しく思うように)一緒に愛しいと思っておくれ、山桜よ。この山奥では桜の花の他に知り合いもおらず、ただ独りなのだから。

 

前大僧正行尊が厳しい山岳修行の最中、思わず美しい山桜を見かけ、山奥でひっそりと咲いている山桜に、孤独な修行中の身を投影して詠んだとされる、小倉百人一首六十六番の歌。

 

もしかすると、この歌を聞いて、

 

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このシーンを思い出した方は私だけかもしれないけれど…

 

秋元才加さんを久しぶりに見て、遠藤光莉を思い起こしたのも私だけかもしれない)

 

という話はさておき。

 

本当の意味の孤独とはなんだろう。

色々解釈はあるにしても、プラスに捉えるならば、自分の進むべき道を自分だけで決めることができる状態、とも言えそうな気がする。

孤独の中でしか信念は生まれない、と言う人もいる。

それは見方を変えれば頑固、ということにも繋がるので難しいけれど、だからと言って周囲に流されて自分というものを持たずに生きていくのも、少なくとも私の流儀ではないし。

 

いきなり何の話だという感じではあるけれども…

 

Twitterのタイムラインというのは、時々何故そのツイートが??というものが流れてくる。もちろんFFさんがリツイートしたり、いいねを押したものが流れてくるのはわかるんだけど、明らかに自分が欲していない情報。そしてその中には、どういう経緯で流れてきたのかわからないものもあったりする。

数は多くないものの、数件最近目にしてしまったのが

 

欅坂46は失敗だった」

とか

「失敗だったことをファンが理解できていないことが問題」

とかいうツイート。

 

まぁいろんな捉え方があるし、こんな内容が流れてくるのは別に珍しい話ではない。もちろん気分のいい話ではない。ないんだけど、少し興味がある、と思ってしまった自分がいたのが自分で少し驚きで、同時にその感覚に「欅坂46」という存在を、時間が経ったことでやや違う角度から見つめているのかもしれない、と思った。

またさらに、櫻坂46と欅坂46を少しずつ別物として捉え始めている自分にも気づいた。これは正直意外だった。意外だったけど、それはある意味義務なのかもしれない、という思いもある。

 

結論から言えば、欅坂46微塵も失敗だったとは思っていない。それは今でもだ。

大好きなことに変わりはないし、後悔も全くない。

 

ただ確かに、欅坂がずっと続いていれば、その中ではいろんな意見が出てきただろうし、当時は客観視できてなどいるわけがないから、叩く、ということに対して脊髄反射のようになっていたところはあった。それも欅坂が活動休止した原因の一つだと言われれば、申し訳ない気持ちもあるにはある。

 

それでも、どうしても引っかかるのは、改名がイコール失敗だったという同義語扱い。正直ちょっと首を傾げざるを得ない。

欅坂→櫻坂以外にも、世に改名した人・グループは数多ある。その全てが失敗だったとは流石に言えない。

もちろんそう言うと、今度は欅坂に限っては失敗なんだ、という反論もあるかもしれないけれど、それもそうとは言えないと敢えて言う。

櫻坂は欅坂とは別グループに感じるようになった、とは言ったが、櫻坂のベースにあるものの多くは、やはり欅坂46であるからだ。

逆にそれがないと生まれないものも多分にあったからだ。

 

「失敗」のグループを礎に置くのなら、櫻坂46も「失敗」ということになるのか?

その「失敗」したグループが、MTVで賞を取ったりするのか?

 

一期生の経験と培ったスキル×そんな欅坂が大好きで加入してきた二期生×一期にも二期にもない個性を提げて加入してくれた新二期生。

ベースはどう考えても欅坂46だ。

櫻坂46を見るときに、そんな欅坂に対する想いというのは、こちらにもあるし、彼女たちにもあるはずで、そこは否定できない。

 

だから、例えば

「欅坂は嫌いだけど、櫻坂は好きだ」

という感覚の人は、真反対のベクトルを自分の体に抱えながら彼女たちを見ていくことになる。自己矛盾を抱えて生きていく、そんな辛いことはないかもしれない。

 

ファンの質の話、それはあることはある。これは自省も込めて、認めなければならない。

どこのグループにも、自分たちが推しているグループがいちばんだ、と思いたい感情を持つ人がいて、それが否定されれば食ってかかる人がいる。推しグループの良さを語るときに、他のグループと比較して、わざわざ貶めないと語れない人がいる。確かに欅坂のファンにもいた。そして他のグループのファンにもいる。ほぼ例外なく、向こうが煽ってきたから返しただけだ、と自分の正当性を主張する。お互いに同じ主張をする。

 

もう一つ。これはもっと核心的なことかもしれないけれど。

 

欅坂46が世の中の陰の部分を担い、生きていくことは楽しいばかりじゃない、楽しいことももちろん大切だけどそれだけでは前に進めないよね、生きることって痛みも伴うよね、でもそれはあなただけじゃないんだと寄り添うところを、評価したから失敗したんだという意見。以前から見たことはある。

仮にそうだとしても、何故それをすれば失敗に繋がるのか、という明確な答えに出会ったことがない。

それをファンがわからないから問題だ、というのは極めて暴論だ。

 

もしそれでも失敗だという意見があるなら、ちゃんとしたアンチテーゼを置いておかなければならない。

 

欅坂46という存在は、それがあったからこその存在意義であり、誰にでもできることではなかった。

それによって救われた人も一人や二人ではない。

むしろ救われた人、心に響いた人があんなにもたくさんいたから、ある意味のムーヴメントになった。

 

それを失敗だ、というのなら、その対極として、何が成功だったというのだろう。

欅坂46として、どうしていくのが正解だったというのだろう。

それすら示さずに、あれは失敗だったよね、などと曰うのは誰でもできることである。

 

 

…まぁ個人的に元も子もないことを言ってしまうと。

本当は、欅坂46が成功だったか失敗だったか、という二分法に意味を持たせていない。

そこに彼女たちがいて、心から楽曲を届けたいとパフォーマンスし、それを目にして心を揺り動かされた。

それだけである。

それ以外に、何もない。

改名したから失敗だった、それを私たちにわかれという言葉の、実にナンセンス極まりないこと。

 

世が移ろい、時の批評家が「あの当時の欅坂46は成功だった」とか「失敗だった」と、それこそしたり顔で言ったところで、少なくとも私の評価が変わることなどない。

だったら言うなという話ではあるけれど笑

 

 

 

 

 

 

こんなアンケートをとった。

 

 

もちろん、「欅坂をベースにして櫻坂としての道を進む」というのが最も正しいと私も思うし、それが最も多くもなるだろう。そう理解しているので敢えてどちらかの二択にした。敢えて言うなら、と聞かれると、どちらの方が多くなるのか。

結果はご覧のとおりではある。

欅坂46が改名する、と知ったときの、渦巻く様々な感情を経験してから1年と少し。櫻坂46としての歴史を少しずつ刻むことによって、櫻坂としてのステータスも生まれていく。メンバーはあまり変わらないのに、確かに別のグループに見えてきてしまう。

おかしなもので、そう見えてしまう自分に抵抗を感じたこともあった。

でもその瞬間、これでいいんだと首を振る。

メンバーは同じだけれど、全く別の世界線を生きる。

別物に見えてくる最大の原因に、やはりあの、存在感としてはあまりにも強いあの人がそこに立っているか否か、ということが大いに考えられる。

 

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実にシンプルな話で、「平手友梨奈のいる方が欅坂46」「平手友梨奈のいない方が櫻坂46」

その違いを語るのであれば、数多の時間を要する。

けれど、その複雑な相違点を全て考察していったところで、結局は最もシンプルなところに立ち返る。

これには、イメージもつきまとう。

当然平手が脱退した後も欅坂は続いていたし、じゃあその期間のグループは欅坂ではないのか、という批判もあるかもしれない。

もちろん、異論はあって当然だ。

これはあくまで、私の見方。

欅坂のその歴史全体を見たときに、欅坂と人が聞いて出てくるイメージを想像しているだけなのだ。

 

むろんどちらがいいとか悪いとか、上だ下だという話ではない。

別でなければならない、と私が感じるときに、どうすれば自分の中で分けられるのかと考えて、得た答えがこれなのだ。

 

櫻坂としての独自路線を歩む、とはそういうことなのだと考えている。

欅坂の色をバックグラウンドに置き、敢えて言及はしないものの、その世界をしっかりと受け継ぎ、そして今のメンバーにしかできない描写を提供する。

それが櫻坂46。

 

 

欅坂46のイメージ。

笑わないアイドル、などというコンセプトでメディアではよく語られたが、元々そんなコンセプトで世に出てきたかは定かでない。

冠番組ではとてもよく笑っていたのも知っている。立ち上げから番組を観ていたが、笑わないアイドルでいこう!などとシュプレヒコールを上げたのは観た記憶がない。それがいつしか、どこかダークサイドに堕ちたグループのような扱いになっていったことにとても違和感があった。

人間の、陰の部分を担当する。

処世術、という言葉が正しいのかわからないが、人間が同じ人間の波の中で生きていくための方法論として、本音と建前を使い分ける、という術を覚えた。そしてそこには、表に出す陽の部分と、自分にしかわからない陰の部分がある。自分が作り上げた陰の部分に悩まされる人も、数多くいる。

でもそれがわからないわけではない。

陰の部分に悩まされ、もがき苦しむ人に寄り添い、傍にいて背中をさすってくれる存在。

人間が誰に励まされるかは人それぞれだ。アイドル、という枠に限って言うのなら、明るく元気に歌い踊る姿を見て気持ちを晴らす人がいる一方で、一緒に悩んでくれたり、泣いてくれたりする人を欲する人も多くいる。その存在に、欅坂がなったのだ。

支持は確かに増えた。

だがその一方で、アンチも増えた。

あの空気を暗いと捉える。逆に暗い、としか捉えられない物事の見方の浅さに同情すら覚えるが、表面しか見てない人にはそうとしか映らなかったのか。

アイドルは元気で明るい、もしくは清楚で美しい。それを固定概念として持っている人にとれば、異色どころかとんでもないものが現れた、ある意味怪物を見る想いだったかもしれない。

世間から見れば異色であるが故に、他のアイドルのような理解がされないことも多かった。

名前は知られていた。

でも孤高の存在として君臨するしかなかった。

それが欅坂46

 

 

先の問いを繰り返したい。

もし欅坂がどうしても失敗だったと言うのなら、逆に成功とは何なのか。何をもって成功と呼ぶのか。

 

私が代わりに答えよう。

答えは簡単。これもシンプルである。

 

つまり、その人が欅坂を好きか嫌いか、ただそれだけである。

 

なんだかんだ言ったところで、結局そこに収斂されるのだ。

それを、何か科学的論拠でもあるような言い方をするから全てがおかしくなる。

感情なんだよ。

感情に理屈という肉付けをしているに過ぎないんだ。

嫌いなんだろ?欅坂46が。

シンプルにそう言った方が早いのに。

 

 

 

 

 

…と、ここまで書いたあと、「あの出来事」が起きる。

しかもそれが、櫻坂ではなく、あの乃木坂46が発端となって、欅坂や平手友梨奈がクローズアップされることになるとは流石に思いもしなかった___________

 

 

 

後編へつづく

 

 

 

 

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後編はこちら。

platanus0524.hatenablog.com

紅に 深くにほへる 桜花 雨さへ降りて 色を染めけるー櫻坂46「五月雨よ」音源解禁 2022年2月23日付

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紅色に照り映える桜の花に、

それだけでも美しいのに雨までも降って

一層濃く染めて色つやを増して美しくなった。

 

一条大納言歌合出詠。

4月6日発売なので、桜の季節に五月雨が降ることはないけれど、こちらは一年中咲き誇る「櫻」。

愛という雨をずっと浴びる櫻に、雨よ止むなと願わずにはいられない。

その雨が彼女たちをより美しく、より強くすると信じているので。

 

櫻坂46「五月雨よ」音源解禁。

 

イントロもなく、いきなり天ちゃんの「五月雨よ!」から始まる曲。

自分でも驚くくらいのスピードで零れ落ちる涙。

欅坂46と櫻坂46を等距離で見つめて、ずっと別物でないとダメだと妙な縛りを自分の中に課していた。

それも無意識に。

でもどこかで欅坂をずっと感じさせてほしいという想いもあって、それらが綯交ぜになりながら彼女たちを見つめてきた。欅の色を残してほしいなら、彼女たちに望むのはやはり強い曲。「流れ弾」はまさにそれだった。

 

その一方で、欅坂のような強い曲で楽曲を届けたい、という彼女たちの言葉はもちろん真意であるだろうけど、それ以外の曲を届けたい、パフォーマンスしたいという欲求だってあるのではないか、と。

特に一期生は、よく言われるように、乃木坂46に憧れてオーディションに応募してきたメンバーが多くいる。とすれば、乃木坂のような王道アイドルへの憧れだって当然あるはずだ。

 

私自身、欅坂の曲でどうしても一曲選べ、と言われたら、間違いなく「二人セゾン」を推す。総合芸術な上に色んなエピソードも加味されてのことだが、ベースは確実にメロディラインにある。

まさに王道ではあるのだが、そのうえに欅坂らしい重層的というか、幾重にも重なる音のラインをはじめとして、とにかく欅坂ならではの色が加わっていた。欅坂の歴史を辿っても、この曲は異色。メッセージ性ももちろんあるけれど、他の曲とは少し趣を異にする。ただ、この曲がメンバーにもファンにも人気が高いことは、欅坂46が残した側面の一つだと言える。

 

話を戻すが、私は確かに欅坂を彷彿とさせるような、強い曲を櫻坂46に求めていた。一方で、彼女たちにセゾンのような曲を表題であげてほしい、というのが、心の奥底で眠っていた真の願いだった。薄々勘づいてはいたが、「五月雨よ」が流れた瞬間、秒で流れた涙でそのことをはっきりと認識した。

良かったね、と。

 

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さらにこの涙には、もう一つの意味がある。

 

 

渡邉理佐と、原田葵のラストシングル。

その葵ちゃんがいない、というのもある意味衝撃的な選抜だけど、この曲を歌えないメンバーがいることがどうしても納得いかない。

悔しいんだよ。

4thが素晴らしい曲であればあるほど、なぜ全員で歌えないのか。

涙には悔しさのスパイスも入っていた。

セカアイじゃないけれど、涙に色があったら、いったいどんな色だっただろう。

セゾン系が来てくれたことへの、本当に自分が彼女たちに与えてあげてほしかったものが来たことへの、感謝の涙と

どうしてこんなに素晴らしい曲を歌えないメンバーが存在するのか、いったい彼女たちが何をしたというのか、何をしたことへの仕打ちなのか、という悔恨の涙

その二つの原色が混ざり合うと、結局グレーしか生まないかもしれないな…

 

 

 

 

 

 

解禁から、既に何度も何度も、何度も聴いた。

音源解禁からたった一日で、少し歌えるくらいまで聴いた。

 

感情が正から負へ、負から正へと揺さぶられ、揺さぶられ続けた結果、曲が心にストンと落ちていった。

 

落ちていったが最後、もはや消えることはない。

 

この曲が私の中から消えることは、ない。

 

そうだと確信を持って言えるほど…

欅坂46「二人セゾン」と並んで称されるほどの曲に、早くもなろうとしている。

神曲などと簡単に使われるけれど、本当の神曲はそんな安いものではない。

届けてくれる人の情念が乗り移り、自分の中で血肉となる

そうなれば自分から離れることは決してない

自分の運命と共に一生ついてまわる

必ずそばにいて、必ず感動を与えてくれる

 

それが、神曲

 

私はそう信じている。

 

 

 

 

さて、こうなると当然ながら、MV解禁が待ち遠しくなる。

欅坂時代から毎回同じことの繰り返しながら、ここまでの神曲のMVとなると、自分の中でも一風意味合いが変わってくる。

 

ちなみに。

 

「Nobody's fault」 音源解禁…2020.10.14. MV解禁…2020.11.11

「BAN」 音源解禁…2021.3.8  MV解禁…2021.3.17

「流れ弾」 音源解禁…2021.8.23  MV解禁…2021.9.12

 

1stと3rdは、ツアーが絡んでいたり、フェスでの解禁が予定されていたという話もあったりで、前例として出すべきか否かは意見の分かれるところであろうけど、できれば間延びせずにMV解禁となってほしいのがこちらの願いではある。

ただこれもアンビバレントな感情ではあるけれど、早く観たいと同時に、この神曲をさらに誰にも文句を言わせない映像美に仕立て上げてほしい、櫻坂46にしか出せない空気感と躍動感で仕上げたMVにするために、じっくり作ってほしいという気持ちも併せ持つ。

 

今こうしている瞬間にも、着々とMVが日の目を見るための胎動を感じている。

 

携わる人全ての想いを乗せて…

 

 

 

間もなく、少し季節外れの五月雨が降り注ぐ。