どの道を進んでも、希望と絶望はあるわけでー日向坂46DOC映画予告編公開と、メンバーの卒業 2022年6月15日付
日向坂46ドキュメンタリー映画「希望と絶望」予告映像が完成しました!映画公式サイトでもご覧いただけます。https://t.co/V3u64dYERF
— 日向坂46ドキュメンタリー映画「希望と絶望」【2022年7月8日(金)公開】 (@hinataselfdoc) 2022年6月14日
7月8日(金)公開🎬
よろしくお願いします!#日向坂46#日向坂46希望と絶望 pic.twitter.com/SZoxmQjkUh
昨日は、櫻坂46から尾関梨香の卒業発表があり、日向坂46は卒業を間近に控えている渡邉美穂が、メンバーとしては最後の「レコメン!」出演を行なった。
5年、或いは7年。
もともとは私たちと同じ一般人だった彼女たちが、アイドルという世界に飛び込んで、それだけの期間を過ごす。
日向坂の映画のタイトルが「希望と絶望」ではあるけれど、どのグループにだってその両方はあるのではないかなと思ったりする。
人の痛みに寄り添い、楽曲を聴く人の心に届けようとした欅坂46は言うに及ばず。
おそらく今のように、大輪を咲かせる前はメンバーも私たちも受け入れるのに時間がかかったはずの、櫻坂46。
そして、あれだけ元気いっぱい、明るく楽しく、と見せている日向坂46でさえ。
…いや、ここを忘れちゃいけないと思うんだけど、今日本に存在するすべてのアイドルグループに所属するメンバー、それこそ男女すら関係なく、そのメンバー全てに言えるのがこの「希望と絶望」の存在だろう。
応募するために手を動かして。
それからはあれよあれよという間に最終選考まで進み。
気づけばメンバーとして壇上に立っていた。
…あの日から。
ほぼ間違いなく言えるであろうことは、その過程を経なければ感じることのなかった希望と絶望だ、ということ。
それを経験したことが良かったのかそうでないのかは、もちろん私が決めることではない。
だが、選ばれし人しか経験できないことである、というのは確かなことだ。
それを踏まえたうえで。
泣き崩れる姿。
倒れ込む姿。
状況がわからないので確かなことは言えないものの、何か物事に本気で取り組むことがあれば、そうなるのが当然だと思っている。ただがむしゃらに、なんて日向坂の曲もあるが、ひたむきに何かに打ち込めば全力を使うし、全力を使えばそうなるものだ。逆に言えば、余力が残っている方が意味がわからない。
考えてみれば、アイドルだけではない。
どの人生で、どの道を選んだとしても、希望も絶望もある。
自分が思い描いていた以上の幸福感を得ることもあれば、信じられないくらいの絶望感に苛まれることはある。
ではそのとき、あなたならどうするか。
或いは、どうしてきたか。
結局それは、彼女たちがアイドルとしての道を進むことと、そんなに大差ないのではないだろうか。
だとすれば、より理想に近い形で生きるためのヒントを、彼女たちの姿から感じ取ることだってできるはずだ。
逆に彼女たちはそれを示してもらえない。
自分と、メンバーと、スタッフ。家族。友達。
相談はできても、正しい答えが導けるかどうかわからない。ヒントすらないかもしれない。
そんな切羽詰まった状況があったとしてもおかしくない。
つくづく、過酷な仕事だ。
そんなことを5年や7年、よくやってきてくれたと思う。
いくら、自分達のファンのため、ファンの喜ぶ顔が見たいから、と言っても、それだけでそこまでの期間アイドルができるものだろうか。
日向坂は、確かに東京ドームで、一つの大きな区切りとなった、だから、DOC映画もそこで終わっていると聞く。
コロナ禍における鬱屈さは、こちらもそうだったが、彼女たち演者の方がそのストレスは大きかったと思う。今になってそれは特に感じる。
芸能人は、自分の芸を誰かに観てもらって、その芸のクオリティの高さに観ている人がお金を払うことで成立する職業。
にもかかわらず、人が集まることそのものが悪とされてしまったら、芸能人という職業は成り立たない。
リモート、オンラインという技術の粋を集めたシステムができあがったからまだいい方で、あの配信さえなかったらどうなっていたか、考えただけで恐ろしい。
外からは順調に来ているように見えた日向坂でさえこれである。
そのコロナ禍で改名という、ある意味とんでもない選択肢を採ってしまった櫻坂に至っては、推して知るべしである。
いや!本当に!つくづく思う!
みんなよく頑張ってくれた!
心から感謝したい。
渡邉美穂が卒業し、4期生が入る。
日向坂はまた、新しく走り始めようという今日この頃。
一つの区切りとして、あのコロナ禍真っ只中の時期に彼女たちに一体何があったのか。おひさまを自称するならば、その彼女たちの苦悩と、そして希望という言葉の意味をしっかり直視しなければならないのである。
ドキュメンタリー映画は、確かにノンフィクションではある。
だが、当然の話、切り取りである。制作側の意向がふんだんに入る。
だから、それがすべてだと思ってはいけない。話が変わってくる。
そうではあるのだけれど、これは間違いなく言えること。
彼女たちが懸命に物事にあたってきた833日間が存在すること。
涙で画面が滲む可能性はある。
たとえそうでも。