櫻坂と日向坂をどう上る2021ー勝負の年に忘れてはいけないこと(上) 2021年1月1日付
まずは、あけましておめでとうございます。
どの角度から見ても大変な、とんでもない一年だった2020年がようやく終わり、やっと2021年が始まりました…
いかがお過ごしでしょうか。
川島雅隆です。
本年も「櫻坂日向坂の上り方」を宜しくお願い致します。
さて。
昨日の2020総決算ブログにも書いたとおり、特に欅坂46にとっては最後の年となり、そして櫻坂46のデビュー年になるという、年初では想像もつかなかったトピックがありました。昨年の界隈10大ニュースがあったら、文句なく一位でしょう。
もちろん個人的には推しメンの卒業が、グループ関しと遜色ないくらいの重要度の高さではありますが、衝撃という意味では改名には勝てませんね…
それでも、明けない夜はない。
もちろん、年初に立てる予定が、昨年ほど意味を成さなかった年もなかったでしょう。年初の時点で、コロナのコの字もなかったわけですから、今年の年末には一体何が起きているかわかったもんじゃありません。
でも、今わかることでちゃんと目標を立てながら進んでいきたい。
私のような一介のBuddiesができることは、彼女たちの示す道をとことん応援することだけなんですよ。それはもちろん。
Nobody's faultの中に、表題曲入れて7曲。櫻エイトの存在。
櫻エイトは全曲に参加できるけれど、それ以外のメンバーは2〜3曲のみの参加。
全員で作り上げる、確かにそうなんだけど、人数が26人いる分、どうしても全員選抜ができないのか。或いはそもそも二期生を入れたことが選抜を見越してのことだったのか。そうだとしたら、だからこそある意味全員でという声にも配慮しつつ、選抜制度も貫くがための歪なシステムとなったこと。
今は1stシングル発売のご祝儀が空気として存在するのではっきりわかりませんが、今後この辺りが結果として出たのかどうかという検証はちゃんとやらないといけないと思います。
それと、これは個人的な願望ですが、あまり間は空けてほしくない。
櫻坂46単体でのライブを志向するのであれば、自ずと曲数が必要になるし、当然そんなことは私なんぞに言われるまでもなく運営サイドも先刻承知のはずでしょう。
確かにメンバーにとっては、矢継ぎ早に新しい曲が誕生すると、大変なのも想像がつきます。
ただどうなんでしょう…自粛期間、できる発信といえばメッセの工夫やブログくらいで、あとはリモート番組と個人の研鑽に勤しんでいたあの頃と比べれば、どちらが大変なのか。
櫻坂46が大きくなるには、どんどん新しいことに挑戦して自分のものにしていくしか方法はない気がします。
そしてそれらが、彼女たちのパフォーマンスに還元されていく、という好循環しか。
私は、勝負は次の2ndシングルだと位置付けています。
1stは話題性から飛びついてくれる媒体も多い。でもそれがある程度浸透し、落ち着いたときに出る2ndは、自分たちの本当の力が数字になる怖さがあります。と同時に、客観的に自分たちのポジションを知ることもできる。足りないもの、目指すべきものも見えてくる。そんな位置付けが2ndにはあると思っています。
欅坂で言えば、サイマジョの後のセカアイがそれにあたります。
そしてやはり、これはずっと申し上げていることではあるんですが、欅坂の色は消してほしくない。
アイドルはこういうもので、という型があるのかもしれませんが、そんな型こそぶち壊してくれることを期待する層も櫻坂を支えています。もちろん、改名したのだから普通のアイドルになることを望む層がいるのも知っています。知っていますが、それをすると改名の意味以上に、彼女たちの存在価値、アイデンティティにまで関わってくることになるように思えるんです。
例えばそれこそ日向坂と同じようなことをするとしたら、どうか。
申し訳ないけど、たぶん日向坂以上の爆発力は難しい。
というか、そもそも比較するものでもなく、単純に得手不得手の問題だと思うんですよね。
「アイドルはバラエティを頑張るべきだ!」そりゃ一般的にはそうかもしれません。
でもやはり私には、そんな不得手なことに時間を取られることの無意味さを感じずにはいられないのです。
可能性は多いに越したことはありません。ただ、改名してゼロからの出発を果たして間がない時期。いろんなことを器用にこなせるかというと、それもどうだろうか、という思いがあります。ならば、今自分たちが追求しなければいけないことに拘ってほしいなというのが正直なところです。
とはいえ、彼女たちが「バラエティを頑張りたい!」と思うのならば、もちろんそれは応援します。
要は、これはずっと私の中にある芯のようなものなのですが、彼女たちがやりたいと思うことは全面的に受け入れるべきだし、もし自分の中でそこに違和感を感じるようになるなら、それは黙って離れるサインなのだということです。
「黙って」というところがポイントです。
少なくとも私の中には、自分の理想どおりに彼女たちを変えようという考えは毛頭ない。
ところが、世には様々な人がいるので、彼女たちは見続けたいけど、自分としてはこうなってほしいのにそうなってない!だからダメだ!という発信をする人もいます。自分の理想とするとおりに進めば、必ずいいものになると信じていらっしゃる。
もちろんそうなれば、その人にとっての「いいもの」にはなるかもしれません。でもその同じものを見て失望する人だっているかもしれない。そしてその失望する人を間違ってる、と罵る権利は誰にもないはずなのです。
それが私の芯。
彼女たちを応援すると決めるなら、とことん彼女たちの進もうとする方向性を受け入れる。
受け入れられなくなったら、離れるだけ。
そこに文句を言うとか、ましてアンチ化するなど、言語道断。
それは彼女たちのことを考えて、などという発想はまるでない。自分の理想が全てなのです。自分の理想の中に生き、そこに他人を当て嵌めようとしているだけなのです。
自分が変わらずに、他人を変えようとするという、とんでもなく困難な道を進んでいるだけなのです。
私はそんなことはしない。
欅坂の世界を残してほしい、そう言いました。
ただしそれは私の小さな願望であり、それを良しとしないという方向性に櫻坂が進み、それを自分が違和感として捉えてしまったとき。
私が彼女たちから離れることがあるとするなら、まさにそのときかもしれません。
そんなときが来るのならば、ですが。
Nobody's faultは、まさにそんな欅坂の世界を踏襲する曲でした。あの曲をラストライブで初めて聴いたときの正直な感想は
ホッとした
それに尽きるのです。
まるで色を変えてきたら…私にとっての「その先」はあるのかなと…
心配があったので、本当に安心しました。
その一方で、「なぜ恋をして来なかったんだろう」や「Buddies」、「半信半疑」や「ブルームーンキス」のような、ある意味新境地の開拓。これはこれで、改名の意義だと感じています。
もちろんとても好きな曲ではあります。ありますが、あくまでこれらを前面に出して、というのは、応援をする側の私の芯から外れるんです。
話は戻りますが、そういう意味でも2ndなんです。
2ndで、運営サイドが櫻坂をどの方向に持っていこうとしているのかが、ある程度はっきり見えるような気がしています。
願わくば、櫻坂46として彼女たちが東京ドームに立つ姿、なんならドームツアーをこなす姿を見てみたいというのが、究極の夢としてあります。もちろんそれはまだまだ先の話だとは思いますが、メンバーが手に入れたドームライブの経験値まで、改名でゼロにされる謂れはありません。
話が飛びがちになるのが川島のブログで申し訳ありませんが、心の底から櫻坂に期待しての言葉です。
努力してないアイドルやアーティストなんていないと思いますが、私も思い入れがある分どうしても報われてもらいたい人たちであり、その資格は十分すぎるくらいあると思います。
そして何より、また生でLIVEができる、見られる、そんな世の中に戻ってほしい。
これは願うしかありません。私にできることは、自分の身を守ることくらい。
先が見えない、というのはよく使う言葉ではありますが、コロナ禍の今ほどこの言葉が似合う状況もありません。
それでも彼女たちは、前に進むはず。
暗中模索かもしれませんが、少なくとも私たちは、彼女たちが進もうとする方向に灯を照らすことができる存在でありたいなと。
2021年年初に感じたことです。
明日は日向坂46編を綴ります。