櫻坂日向坂の上り方

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何が嘘で、何が真実か。どこにも嘘はなく、どこにも真実はないかもしれないー欅坂46「僕たちの嘘と真実」鑑賞

雨が降ればいいのに、と思った。

 

勢力という意味では、過去最強クラスと言われる台風10号が九州に接近中。

そんな台風からは離れているけれど、全く影響がないわけではないし。

もともと雨は煩わしいことが増えるから好きではないんだけど、今日だけは違った。

そもそもそれを期待して傘を持って行ったところもある。

映画館を出るとき。

自分の感情が揺り動かされ、叩きつけられ、どうにも表現のしようのないカオスな、色で言うといろんな原色を混ぜ合わせた結果どの色にもならずに結局グレーになってしまうような、そんな感情が襲うことはもとより覚悟の上だった。

 

だから、雨が降っていてほしかった。

雨がそんな色を洗い流してくれればいいのに。

 

自然の力に依存してしまうのは、本当は自分の流儀ではない。

 

この5年間で見てきたもの、考えてきたこと、本当の意味でわかるはずのない、彼女たちの感情に寄り添おうという気持ち。

自分たちがやってきたこと、見てきたこと、感じてきたこと、それらの答え合わせの一端がそこにあるかと思うと、それだけで武者震いがしたし、自分の理性だけで自分を保てる自信も何もあったもんじゃなかった。

 

それでも、観なきゃいけないと思った。

強迫観念、と言ってしまうと言葉が悪いけれど、なんだろう…ここまで彼女たちを見続けてきた義務感?にも似た気持ち…いや、違うな。義務だけなら自分の性格上、上から義務化されると逆らいたくなるから…

自分の中で、これを見ないと何も終わらないし、何も始まらないと思ったからか。

 

 

 

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自分で予想外に苦しかったのが、「10月のプールに飛び込んだ」MV撮影風景だと言ってしまうと意外だろうか。

選抜制度の是非ももちろんあるし、一方で二期生のみんなに早く曲をあげてほしいという気持ちもあって、二期生が本当に楽しそうにMV撮影をしている姿が逆にしんどくて。

その撮影の方向性が、どうにも「黒い羊」の後にくるシングルとして、これでいいのか?という思いで見ていたのも事実。

平手友梨奈が、撮影に来なかった、それは責められて然るべきかもしれない。

でも、じゃあその感情が全く理解できなかったかと言われれば、わかった、と言うとおこがましいので、少なくとも不思議には思わなかったと表現した方が正しいのかな。

当時、巷では確かに9thは明るい方向に進むのではないかと言われていた。そうかもしれないと思いつつ、「黒い羊」の後にそんなことを本当にするのか?という想いもあった。そして、もしそうなら平手友梨奈を9たびセンターに選ぶその意味をどこに見出すのかと。

 

そういう衝撃が、MV撮影のシーンにはあった。

 

本当にこれで行こうとしていたのか。

 

いや、それを私なんぞがどうこう言う権利はないし、出していたら出していたでCDは買わせてもらったはず。

 

だけど…なんだろうこの違和感。

 

「世界には愛しかない」MVを彷彿とさせる風車がバックにあり、撮影中に台風が近づいてきたとかで暗き曇天に徐々に変わり、一つの風船が風に煽られて飛び去る…

 

何か…

何かを感じてしまって本当に涙が止まらなかった。ここは。

 

選抜であって全員でのクレジットではないものの、初めて欅坂の曲に名を連ねるはずだった二期生の想いが、私の中に入り込んでくる。

でも同時に、どうしても表現ができないという平手の思いも入り込んでくる。

 

そして最終的に、そういう運命に翻弄されたこの曲を愛おしいと思い始めてきた。

もちろん、曲には何の罪もない。

だからこそ、世に出るのが遅くなったとしても、ちゃんと陽の目を見ることができることを、素直に喜びたい。

 

この数分間だけで、この曲を愛でようと思えた。

 

 

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泣いた。確かに泣いた。

自分の予想を遥かに越えるくらい、泣いた。

ご覧になった皆さんが一様に仰っていたように、私は平手友梨奈の一端しか、いやもしかしたら一端すら感じられていなかったかもしれない。

何が苦しいかと言われれば、そもそもそんな原因を探ることに意味があるのかどうかわからないけれど、欅坂46をもっと見たい、何を見せてくれるのかとワクワクする感情、それが何十何百何千何万という人たちのそれに合わさって重なって、巨大な何かになってしまい、その期待に応えなきゃいけないという彼女たちの優しさとひたむきさに甘えていた自分に気づいてしまったこと、それによる「良心の呵責」に似たものかもしれない。

例えば、2019全ツ大阪の平手友梨奈のサプライズ復帰であったり。

例えば、2019ドームにおけるアンコールの不協和音であったり。

自分たちが見たかったものを提供してくれたことに対する満足度は確かに上がる。

でもそれを彼女たちが心底望んでいたかどうかは、また話が別なのだと思い知った。

 

私たちの期待がいつしか重荷になってしまい、いやもしかすると重荷に感じてしまう自分たちのことも嫌になっていたかもしれない。

それでもこちらは、期待だけはする。

考えてみれば、待つ苦しさなんて、それを待たせる苦しさから比べたらちっぽけ過ぎて話にならない。

話にならないくらい小さい上に、リスクも何もない。

そのくせ、ハードルだけはどんどん上げる。

彼女たちはそれに応えなきゃ、と、もがく。

上げたハードルの、さらに上へ行かなきゃと奮闘する。

そして、それを見て私たちは感動し、満足し、そして期待値を上げる。

 

結局これの繰り返しだった。

 

もちろん、欅坂に限った話ではないのかもしれないけど、その期待というのが、少なくともアイドルに対するそれではないと思うし、アーティストに対するそれかと言われればそれも少し違う気がするし…

それについては自分でもよくわからないので、もう一度観てから判断したい。

 

それにしても、泣いた。

ただ冷静になって少し考えたことは…

 

言葉が強くなってしまうんだけど、泣くという行為は「甘え」である、という持論が私の中にある。

本当の危機が迫っているとき、人は泣かない。いや、泣けない。泣いている場合ではないと本能が察知するからだろう。

 

例えば極端な話、無人島や山奥で突然一人きりになったら、人間はどうするか。

子どもなんかは、最初は泣き叫ぶかもしれない。

でもその「泣く」は何のため?

自分が困っている、だから誰か助けて!というサインでしかない。

それを「甘え」と呼ばずして、何と呼ぶのか。

やがて、泣いていても誰も助けてくれないとわかると、自分から助かる方法を考え、動く。

もちろん、恐怖から涙を流しながらかもしれないけど、何もせずにワーワー泣いていたときとは明らかに違う。

 

映画を見て泣いたり、誰かの感動的な話を聞いて泣いたり、もちろん悔し涙を流したり、怒りで涙がこみ上げたり、嬉し涙だったりと、人の涙にはいろんな種類がある。

ただ共通して言えることは、自分に余裕がないと涙腺は緩まない、ということだ。

人が本気で何かに必死になっているとき、そこに涙を流している余裕はないんだ、という持論である。

 

だとすればつまり…

今日私があれだけ泣いたということは、その「正体」は何だ?

 

偉そうなことを言いながら、ただ、あんな状態になっていた平手友梨奈を心配し、励まし、悲しむようなことを書き連ねていた割に、結局人ごとだったという「余裕」から来たんじゃないかと自分で思ってしまって、本当に申し訳なく、情けなく、気分が悪くなった。

平手が満身創痍で真ん中に立っていたことは、もちろん知っていた。

でも、それでもそこにいてほしいと望んでしまった自分がいた。

そして、そんな私以上に、平手に引っ張ってほしいと望むメンバーがいた。

欅坂から離れようと思うと告げた彼女を、全力で止めにかかるメンバーがいた。

それを見て、泣く…

 

どれだけ外野なんだと。

いや、ヲタクなんてそんなもんというか、それ以上でもそれ以下でもなくて、何ならそこまで込みでエンタメとして自分の中で消化できるくらいでないといけないのかもしれないけど、私にはそんなことができるはずがなかった。

いずれにしても、自分がそこに携わってもいないのに、何も知ってるはずがないんだから知ってるように発信することそのものが、そもそもの間違いであったと。

 

最も衝撃を受けたのは、2019ドームのダブアン「角を曲がる」直後の平手友梨奈

ダブアンが終わり、おそらく公演が全て終了した後だろう。倒れ込む平手友梨奈

 

その、足。

 

ご覧になった方がどれだけご記憶にあるかは定かではないが、目を疑った。

 

傷だらけの膝や膝下などはまだわかる。

 

爪。

 

親指の、真っ黒な爪。

 

後頭部を何かで殴られたような衝撃、というのか。

 

あの場面を見た瞬間、自分がいかに彼女に過度な期待を寄せ、その期待に応えようと彼女自身の精神とは無関係な場所で力を消費させてしまい、体をあれだけ消耗させてしまったのかと。

 

ありがとうももちろんあった。

それ以上に。

その何倍も。

申し訳なさが勝ってしまった。

 

同じ日、同じ場所で、同じ空気を吸った者として。

 

ありがとう、ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん…

 

 

……

 

………

 

 

 

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欅坂46が、好きだ。

だけど、時にその「好き」という気持ちは、相手にとって嬉しいことばかりではない。

好かれるが故に、そこから離れたくなるときもある。

 

もちろん、5年間の軌跡を2時間強に編集したのだから、あれが全てではないに決まっている。

それこそ平手友梨奈が言うまでもなく。

他のメンバーが言うまでもなく。

ただ一つ間違いなく言えることは、真実の一端であるということ。

 

…そうは思うんだけど、一方でこんなことを思う自分もいた。

実はあの場所にいる人、スタッフさんや私たちヲタクや、メンバーに至るまで。

その「役割」を演じているに過ぎなくて、実は真実なんかどこにもないのかもしれないって。

 

全て真実であり、

実は全て真実ではないのかもしれない。

 

どこにも嘘はないように見えて

実は全部偽りなのかもしれないって。

 

そんな思いが去来しては、全力で首を横に振る。

虚構と現実の狭間にだって、真実はちゃんとある。

それを少なくとも私たちの側が否定することだけはやっちゃいけないと。

 

 

 

 

 

好きという感情は、最終的に醸成されると「執着」という概念に変わることがある。

と同時に、実は嫌いという感情も、それではないかと。

世に欅坂アンチ、平手友梨奈アンチと呼ばれる人が存在していることは知っている。

でもその人たちも、元々は何かに期待し、彼女たちを見続けようとした存在であることは忘れないでおきたい。

 

そして、嫌いという感情のもとで彼女たちのことをあれこれ語るのも、また「執着」なのである。

 

おそらく彼らはそのことに気づいていない。投げかけられても否定するだろう。

本当に嫌いなのであるならば、話題にすらしないのが正しいのだ。

話題がなくなれば世間は興味を失うし、そのうち消えていく。

本当にアンチで嫌いならば、消えてもらうのが最も大きい望みのはずだ。なのに、それをしない。

自分から話題にして、「オワコンだ!」などと叫んでる時点で、本当のオワコンには程遠くなるし、嫌いだ嫌いだ、あんな映画見るか!と呟けば呟くほど、トレンド入りすることへ寄与していることに気づいているのかいないのか。

 

だとすれば、やはり「執着」なんだよな。結局気になって仕方ないだけだ。

 

まぁもちろん、そんな連中と根っこが同じだと自分で認めるのも癪に触るけれど、冷静に見ておく必要もある。

 

 

やっぱり結論としては…欅坂46、そして改名してスタートする新グループをこれからも見ていきたい、という気持ちには変わりがない。ないどころか、ますます強くなった。

いつぞや、まだ改名が発表される前のこと。4人の卒業脱退活動休止を受けて「これからの欅坂は、過去の自分たちが最大のライバルであり、これを越えなければ先はない」と書いた記憶がある。

まさにこれと同じことを映画の中で言ってたメンバーがいたんだけど、これを「欅坂」の名前を冠したまま超えるというのは、想像を絶する高さの壁である。

だから敢えて、直球ではなく変化球で越えようとするのが「改名」という選択肢だったのかと。

それが悪いとは言わない。

そちらの方に向かって全力を尽くすというなら、それを応援するだけのこと。

 

欅坂の曲がどれくらい新坂で歌い継がれるかは、わからない。現時点、彼女たちですらそれはわからないかもしれない。

 

 

だけど、彼女たちの名前がどうなろうと、彼女たちは「欅坂46」である。

 

 

卒業しようが脱退しようが、「欅坂46」である。

 

そうやって縛ってしまうことはよくないことかもしれない。

 

ごめんね。

 

でも。

 

それでも。

 

来月のラストライブ。

それ以降は「欅坂46」の名前が封印されるのだろうか。

もしそうだとして、彼女たちが新しい名前を名乗ったとしても。

今の日向坂46を、私が今もひらがなけやきのマインドを見るように。

 

未来永劫、彼女たちのグループの存在がある限り。

 

 

 

 

 

彼女たちを「欅坂46」として、多分見ていくんだろうなと。

 

 

 

 

そんなふうに思いながら

梅田を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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