欅坂46改名までのカウントダウンに、ふと心を通り過ぎた言葉を綴るノートみたいなもの 2020年8月19日付
アンビバレント、とは、彼女たちが歌う歌詞にあるように「二律背反」と訳されるが、もっと正確に言えば「一人の人が相反する感情を同時に抱くこと」であるようだ。
欅坂46が改名すると聞いて、当然最初はいてもたってもいられなくなる。
メンバーが残り、別の名前になるとはいえ活動は続いていく。
なのに、何故そこまで悲しみに暮れる必要があるのか。
そもそも感情にそんな理屈は通用しないんだけど、それがあるとしたら私が考えられる理由はこうだ。
欅坂46を応援する人には、実は複数のパターンがあるのではないかということ。
つまり、「欅坂46というグループが好き(世界観、コンセプト含む)」という方々と、「欅坂46のメンバーが好き(卒業脱退メンバー含む)」という方々、さらには「欅坂の世界観やメンバーはよくわからないけど、とにかく楽曲が好き」という方々もおられるような気がする。
もちろん、この三つ全てに該当する方もおられるだろう。もとより私がそうなのだけど。
またいくつかが重なっている、という方だっておられるに違いない。
もし仮にそういうカテゴリわけが正しいとすれば、たとえメンバーが同じで名前が変わるとはいえグループが続いていくのに悲しいのは、その方はやはり欅坂46というグループ、コンテンツ、世界観、果てはその存在そのものを推しておられたということなのかなと。
私の場合、自分でも驚くくらいグループが活動休止するということが悲しくて辛くて、本人たちはあれだけ頑張っているし、現状を打破しようと食らいついているのに、それを許さない「何か」に阻まれて「欅坂」という名前を捨てざるを得なくなった、ともすれば私たちの側に問題があったのかもしれない…など実際いろんなことを考えたりもした。
オンラインライブから約一ヶ月を経て、そこまで感情があっちに行ったりこっちに行ったりで、アンビバレントどころかカオスな状態でこの暑い夏を過ごしてきた。
そうすると時間の経過とともに、少し違う感情も芽生えてきた。
この世に存在するもの…有形無形含めて、全てにおいて言えることとして。
その存在が無意味であるはずもなく、他の対象に大小様々な影響を与えていると私は信じている。
生物という命ある存在はもちろんのこと、生物の一種である人間が作り出した、命を持たざるものに至るまで全て。
この世に存在するその全てのものは、誰かに必要にされなくなったら存在価値を失う。
存在価値を失ったものは、静かに消えていくしかない。
話題にもされない。
話題どころか、誰かに注目されることも、気にされることもなく消えていく。
消えていった後も、誰かに思い出してもらえることもない。
それが「存在価値をなくしたもの」の宿命である。
こんな寂しい話もないだろうが、残酷だけどやはりあるのだ。そういうことは。
芸能界にフォーカスすると、芸能人として名前が売れている人など氷山の一角、いやもしかするとその氷山のさらに頂点の部分だけかもしれない。
そのほとんどは売れない人たち、世間がその存在を知らない人たちで占められている。
そしてそのまま芸能人として見切りをつけるか、あるいは所属事務所から最後通告を受けてその世界から姿を消す。
姿を消しても、気にも留めてもらえない人たちがごまんといる。
本人に才能があるから売れるというわけでもなく、周りの環境やサポートなども当然必要だし、或いは「運」というものもあるだろう。人との出会いも大切だ。もっと言えば、それらが全て合わさった「タイミング」という狙っても手に入れられないものも必要かもしれない。
でもそれらが全て都合良く手に入れられる人が一体どのくらいいるというのか。
話を戻すけど、ある意味欅坂46というグループ、そしてそこを構成するメンバーはこの全てが手に入れられた人たちである。
鳥居坂46のオーディションがあり、それに合格する。
これだけでも本当に凄い。
そこからデビューするときに、欅坂に「改名」。そう、一期生は既に一度改名を経験している。
デビュー以後の活躍は、今更言うに及ばず。
もちろんその裏側では、本当にいろんなことがあったはず。映画も公開されるけど、映画に入れられない裏側だってたくさんあったはず。
そしてその過程で、本当に多くのファンの心を掴んだ。
彼女たちが真摯に楽曲や、世界観や、コンセプトに向き合い、それらを見ている人に届けたいと心から願い、それが届いた結果である。
あまり活動ができなかった時期であっても、彼女たちを支持する人はそれこそ数え切れないほどいる。
であるならば。
言い方が強引なのを承知で言えば、世間から必要とされなくなってその存在を忘れられ、人知れず解散していくような終わり方は、全くもって欅坂に相応しくない。
彼女たちは全力だった。
全力すぎたのだ。
全力は、短命なのだ。
命を長らえるには、手を抜くことが必要かもしれない。それこそ彼女たちのコンセプトの一つだった、抵抗したい大人たちが手に入れた処方箋の一つだろう。
「大人たちに支配されるな」とデビュー曲で謳いあげた彼女たちがそれをするのか。
しない。
するわけがない。
ずっと全力で走ってきた彼女たちが、一度でも手を抜いたら必ず見る人に伝わる。
そうだと思われてしまったら、その凋落は歯止めが利かない。
誰からも忘れられる存在に、一直線になってしまう。
それを自分たちで許容するはずがない。
それならいっそ、手抜きを見せることで命を長らえさせるくらいなら、いっそのこと…
これは、美学である。
もしそれが欅坂46の美学であるならば、そこに誰が異を唱えられるだろうか。
その全力があったからこそ、私たちの心を打ったのではないのか。
それをこの先何年も続けろというのか。
もしかすると、その私たちの期待こそが、彼女たちを縛り付けていたのではないのか。
おそらく、欅坂46に関わってきたすべての人たち、メンバーはもちろんのこと全てのスタッフさんに至るまで、外野には考えられないくらいの全力で事にあたってきた結果。
それが今回の改名なのではないかなと。
そんなふうにも思えてきたのだ。
欅坂46がこの先見れなくなってしまうのは悲しいという感情。
その一方で、全員が全力で挑んできた欅坂46が人知れずなくなってしまうよりは、多くの人に惜しまれるうちに封印する方がいいんだという感情。
アンビバレントとは「一人の人が相反する感情を同時に抱くこと」。
まさに私の心の中には、欅坂46そのものに対してのアンビバレントが存在している。