櫻坂日向坂の上り方

ブログ移転しました…長い間本当にありがとうございました!

あの不協和音について触れないと始まらない2020 2020年1月3日付

新年あけましておめでとうございます。

今年はたぶん不定期が続くと思いますが、どこかでもしかしたらまた連続ブログに挑戦するかもしれません😅

気まぐれではありますが、ブログに捉われる、という生活もなんだかなぁと思いますので、川島の発信ツールの一つとしての地位を担っているとお考えいただければ幸いです。

 

さて。

第70回紅白歌合戦のことは年の最後のブログでも触れたことは触れたんですが、それは「あの」不協和音を見た直後という熱量を記録したかったからです。客観性もまるでない、揺さぶられた感情そのままが言葉として表れた文章。それも私の一部であり、大切にしたい部分であると考えているからです。ですので、それもそれとして、正月の間に何度か見返してさらに感じたことを年初のブログとして置いておきたいと思います。

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いつも欅坂が紅白に出ると、その出番が近づくにつれて見てる私も不思議な緊張感に包まれます。

 

一昨年の不協和音。

リベンジ、なんていう言葉がメディアに躍ってましたが、本編の不協和音は相当完成度が高かった。少なくとも失敗などではないわけです。だから私にしてみればリベンジなどという言葉は相応しいと思っていません。

もちろんわかってます。メディアが言う「リベンジ」の意味。

私も、平手友梨奈が二年ぶりに紅白に出るのなら、不協和音が見たいと思いました。でもそれはリベンジなどという意味ではなく。

 

トラウマの払拭。

 

間違いなく言えることは、欅坂46が最も望んでいる「楽曲を伝えたい」という想いよりも、別のことで世間の話題と化してしまった。彼女たちにとっては言うまでもないでしょうが、私にとってもそれは同じで、センセーショナルな部分だけを取り上げて曲の中身に触れてくれないのが悔しくてならなかった。

事実、その後彼女たちは東京ドーム公演まで不協和音をLIVEですら披露しなくなってしまいました。

それが、その紅白での出来事がきっかけかどうかは知る由もありません。事実はどうであれ、どうしても不協和音というとあのことが頭をよぎってしまう。

個人的には…どうもあの紅白からずっと足が止まっているような感じがして仕方なかったんです。もちろん彼女たちがではなく、私自身が。

確かにドームのアンコールというサプライズもよかった。だけど本当の意味で不協和音を「復活」させるなら、大晦日NHKホールしかないのではないかと。止まってしまっていた足を前に出したい。そのためにも。

 

…というのはもちろん私の勝手な願望でした。普通に考えれば「黒い羊」になるはずですから。

 

だからこそ、披露曲が発表されて、そう考えていた自分が思い切り度肝を抜かれました笑

 

まさか本当に不協和音で来るとは!!

 

年末の大型歌番組に出演する欅坂は素晴らしかったです。避雷針も、月スカも、アンビバも、みんなよかった。レコ大の黒い羊もブランクを感じさせない出来だった。

でも私には、すべて大晦日の不協和音へのプレリュードにしか見えなかった。

…というのが正直なところです。

 

晦日当日も「その時刻」が来るのが本当に緊張で。

 

二年前と同じ時間同じ場所での不協和音に、何も思わない一期生などいないでしょう。

あのとき同じ空気を吸った鈴本美愉がいない、織田奈那もいない。そのことも混じり合っていろんな感情になったとしてもおかしくないし。

個々人によって微妙な差はあるにしても、それぞれがそれぞれの想いで自分のポジションにつく。

二期生はあのとき、紅白を見ていたんでしょうか。「どうしても欅坂に入りたい」と言って応募してくれた彼女たちは、いったいどんな感情であの場面を目の当たりにしたのか。そしてその紅白で今度は自分がその中に入ってパフォーマンスをするとなって、どんな想いが支配したのか。

 

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イントロからもう泣きそうでした。。

見る側である私の目的が、そもそもそんなトラウマの払拭にあるというのに、やはり自分の中のトラウマが相当大きかったということを痛いくらい突きつけられて。

そんな私でも、逆に拳を突き出した平手友梨奈の目を見たとき、素直に思いました。

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「勝った…」

 

何と戦うか。

何と戦って勝つのか。

 

それはまさしく、二年前の自分。

 

と同時に、思ったことはもう一つありました。後悔です。

何をずっと不安に思っていたのかと。

いったい私は誰をずっと見てきたんだ。

それは平手友梨奈であり、佐藤詩織であり、欅坂46全員であり。

申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

不安に感じることなど何もなかったはずなのに。

 

歌に入ってもう一つ驚かされたこと。

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君はYesと言うのか

軍門に下るのか

 

そう、それは「二番の歌詞だった」ということです。

 

勝手な解釈で失礼します。

二番ということはつまり、二年前の不協和音の続きなんじゃないかと。

あんなところで終わるわけがない。

平手友梨奈が「復活」した欅坂46は、紅白という場所に不協和音を完成させに来たんだと。

あくまで個人的解釈ですが。。

 

そう解釈してしまってからは、もはや流れるような時間でした。

当然の如く平手友梨奈がクローズアップはされますが、欅坂全員がしっかり輝いていた。逆に言えば、それがなければ平手があそこまでリミッターの外れた不協和音を披露できる素地がない。

一期生は平手と一蓮托生ですから、彼女のすべてを知っていると言っても過言ではないでしょう。

だからその分、平手を支えるという意味では不安要素がまるでない。

 

私が特筆したいのは、二期生です。

 

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田村保乃の「僕は嫌だ!」は、ドームのそれとはまたかなり違っていました。

12月に入ってからか、田村保乃と平手の関係が私たちの想像以上に深まっていて、そしてそんなほのが平手の傍らにちゃんといて。

リミッターという言葉を使いましたが、独りで外すのは相当勇気の要ることです。

リミッターを外しても支えてくれる人がいると信じられるから、安心して自分の力を最大限まで出すことができる。

 

だからもう、何もかもがチームとして必死に作り上げてきたことそのもの。

 

ただ、そうであるからといってこれを「完成」とは私は思っていませんし、完成して満足、などというメンバーはおそらく誰一人としていないと思います。

これはこれとして、またそこからどこか先の見えない行き先へと旅立っていくのが、欅坂46というグループなのだと。

 

自分が画面を通して見た彼女たち、そこから得た感情を言葉にするならそんな感じです。

 

 

二年前、私がトラウマになってしまったのは、彼女たちの死力を尽くしたパフォーマンスの評価よりも、体調を崩してしまったことに対するセンセーショナルさを前面に押し出す報じ方にその一因がありました。

そして今回、平手友梨奈は画面ではしっかりと最後まで曲を務め上げたにもかかわらず、そのあと担がれて退場した、という報道がなされ、しかもまた「卒倒」などという、アンチが飛びつきそうな文言まで躍りました。

こちらは画像を載せたりしませんが、どう見ても卒倒どころか倒れてもいません。そういう報じ方をするとアクセス数が増え、これが新聞となると部数売上につながるという算段があったに違いない。

 

週刊文春は言うに及ばずですが、最近本当に恣意的なメディアが増えています。

私自身が大学時代はマスメディア方面を目指していて、元新聞記者の教授のゼミに入っていたこともあり、メディアが本来の役割であるところの中間媒体という役目を果たすのがいかに難しい時代なのか、と考えさせられます。

そのときより今はさらに商業主義的というか、極端な話、売れるなら事実なんかどうでもいい、というような風潮も見られる気がしています。

 

でも逆に考えれば、そんな恐ろしい話はありません。

 

新聞雑誌が売れない時代だからこそ、手っ取り早く売上の数字を増やすために、事実でないことを巧みな言葉で記事にする。そのことによって、対象となった人の人生が狂ってしまうという罪深さにも気づくことなく。いえ、気づきながらやっているとしたらさらに罪深いことになります。

他の商売ならいいというわけではありませんが、こと情報を生業にしているのならば、売れるために虚偽の情報を流布する、という万死に値するような行為だけは慎んでほしいと強く強く訴えたい。このネット時代、間違った情報を流したらすぐばれる。ばれたら一気に評判を落としてさらなる部数低下を招くだけなのに。。それでも楽して売れそうな情報を集めるんですね。なければこうやって作ることもあると。

 

倒れてもいないのに、倒れたと書く。

事実として間違いなくあるのは、少なくとも画面に映っている間は一切倒れてもいないということです。そこは絶対的に二年前と違う部分。

広まっている画像は曲が終わったあとのことです。

こう言うと今度は「映ってなければ倒れていいのか」と言う人もいるかもしれません。

大前提として倒れていない、ということを述べた上でそんな疑問にお答えするなら…

 

それでいいんです。

 

一つの作品として完成させた後で、バックステージで倒れ込むなどよく聞く話です。画面に映ってもいない部分を拡散して、倒れたからダメだなどという批判がいかに的外れか。

「プロとしてダメだ」ではなく「映っている部分では完璧にこなした」ことをプロとして評価すべきではないんですか。

そうでないなら、バックステージで倒れ込んでいるすべての演者さんを「プロ失格だ」と批判してください。そうでないとダブルスタンダードになります。

 

少なくとも、ただ単に〝平手友梨奈を叩きたいだけ〟にしか見えない。

 

どこかメディアは、平手友梨奈が倒れた方が記事になる、とでも思っていたようなフシさえ感じられます。

そのことによって、受けなくてもいい批判を招く。

 

平手友梨奈はずっとそういう外の悪意と戦ってきたように思います。

並の精神力なら、とっくに潰れていてもおかしくない。

それでも、彼女はまだグループにいて、センターに立ち続けてくれる。

 

だから、本当に思いました。

私のような一介のファンには何の力もないし、メンバーの誰をもそういう悪意から守ってあげることはできないのかもしれない。

それならば、私はできることをする。

正解なんて結局わからないままだけど、自分のやり方で欅坂日向坂のことを発信する。

それしかないなと。

 

当然というか何というか、一つのものを見て全員が同じことを感じるということはあり得ないわけで、あれを見て嘲笑する人もいるだろうし、怖いと思う人もいるだろうし、そして心掴まれる人もいる。

二年前の不協和音の後、欅坂新規になった方も大勢おられます。

今回もたくさんの欅坂新規を産んだのではないかなと考えています。

 

それに、怖いという感覚は、少なくとも間違いではないのかなと思う自分もいたりします。

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ただあの平手友梨奈のあの表情、あの部分は私たちすべての中にあるものだと感じているのです。

それを怖いと感じるということは、正直言えば自分としっかり見つめ合えていない証拠なのかなとも。

自分の中にあるあの部分を受け入れ切れてないんじゃないかと感じています。

 

何かに打ち克つというのは、並大抵ではない。

並大抵の神経では前に進むことすら許さないことも、人生にはあります。大袈裟じゃなく。

強くなるというのは言葉では簡単だけど、いろんな方向から向けられる善意悪意もすべて受け入れて自分の糧にできる人、それが本当の強さではないかなと考えます。

 

平手友梨奈はもちろんのこと、欅坂46であるというだけで世間から好奇な目で見られることも少なくないはずのメンバー。

私たちはやはり、「彼女たちを守る」などというおこがましいことを考えるのではなく、そんな毎日を戦いながら過ごしている彼女たちをしっかり見つめ続けることが唯一にして最大のできることなんじゃないかなと、令和元年の締めくくりに考えておりました。

 

とりとめのないブログで申し訳ありません。。

つまり今年も川島はかなりとりとめのない毎日になっていくのかなとは思います笑

 

今年の夏には、本格的ヲタ活も四年目を迎える私ですが、変わらぬご贔屓を賜れば幸いです。

 

改めまして、今年も宜しくお願い申し上げます。

 

令和2年1月2日 川島雅隆

 

 

 

 

 

 

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